2人の姪を王妃に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:38 UTC 版)
「トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)」の記事における「2人の姪を王妃に」の解説
トマスがノーフォーク公を継承した頃、妹エリザベス・ブーリンの娘アン・ブーリンがフランスの宮廷仕えを終えてイングランドに帰国し、王妃キャサリン付きの女官として宮廷仕えするようになった。ヘンリー8世はいつまでも男子を産めないキャサリンに嫌気が差してアンとの再婚を考えるようになり、1529年頃から彼女と肉体関係を持ち始めたという。ノーフォーク公はそれまで姪アンにさして関心を持っていなかったが、彼女が国王の御手付きになったと知ると2人の結婚を全力で推進した。ヘンリー8世とキャサリンの離婚に反対するローマ教皇クレメンス7世に圧力をかけたり、教皇から離婚許可を取れなかった王の寵臣の大法官・枢機卿トマス・ウルジーの追い落としにサフォーク公・義弟でアンの父ロッチフォード子爵トマス・ブーリンと結託、ウルジーを失脚させるなどの工作を行った。 1533年にアンを2番目の王妃にすることに成功したが、生まれたのは女子のエリザベス王女(大姪、後のエリザベス1世)だけであり、3年後の1536年にアンが姦通罪で処刑されたため、ノーフォーク公の当ては外れた。なおアンに死刑判決を下した特別裁判所の裁判長はノーフォーク公が務め、公爵は自分の保身を優先し、姪に温情を示すことはなかったという。一方で大蔵卿の補佐を務めたトマス・モアと親しく、1532年に彼の大法官辞任を王へ伝えたり、モアの裁判が1535年に開かれると裁判官の一員を務め、この裁判で大法官トマス・オードリー(英語版)と共にモアへ王に赦免を乞うことを勧めたが断られている。 1536年から1537年にかけてイングランド北部で発生した反乱(恩寵の巡礼)では鎮圧に当たり、当初は装備・兵站不足のため反徒と交渉で赦免を与えて解決を図り、再度反乱が起こると交渉で分裂した反徒を蹴散らし平定した。また父に倣って貴族や王家(テューダー朝)との政略結婚を推し進め、姪だけでなく自らの妹や子供たちも利用して姻戚関係を結んだ。ただしテューダー朝との関係は実を結ばなかった。 トマス・クロムウェルとカンタベリー大司教トマス・クランマーが進めるプロテスタント的宗教改革にはカトリックかつ保守派の立場から反発、1538年9月にクロムウェルがヘンリー8世の許可を得た上で全ての教会に英語訳聖書を備える命令を出すと、ウィンチェスター司教(英語版)スティーブン・ガーディナーと組んで巻き返しを図り、翌1539年6月に改革の行き過ぎを危ぶむヘンリー8世の支持でカトリック寄りの信仰箇条を定めた議会制定法の6箇条法が制定された。 1540年にエセックス伯に叙爵されたクロムウェルが実現させたヘンリー8世とユーリヒ=クレーフェ=ベルク公女アンの結婚は、ヘンリー8世の我がままによりすぐに離婚となった。この離婚準備中にヘンリー8世はノーフォーク公の弟エドムンド・ハワード卿(英語版)の娘キャサリン・ハワードに手を付けた。ノーフォーク公はこれを利用し、結婚の失敗についてクロムウェルの責任を厳しく追及し、7月28日には彼を処刑に追いやることに成功した。ついで同日にヘンリー8世とキャサリンの結婚を実現させたが、この2年後の1542年にはキャサリンは姦通罪に問われて処刑されている。
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