2人の妻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 05:46 UTC 版)
豊田佐吉は2度結婚をしている。1度目は佐原豊作の三女・たみ、2度目が林政吉の長女・浅子である。2人とも、佐吉の生家からわずかの距離にある集落に実家があった。 最初のたみとの結婚は、1893年(明治26年)3月であった。たみは佐吉と一緒に大工の修行をしていた佐原五郎作の妹でもあった。たみの実家の佐原家は、佐吉の家よりは裕福であったようである。たみの姉たちはそれぞれ、地元の有力な家へ嫁いでいた。佐吉とたみとの実質的な結婚生活は非常に短かった。一緒に住んだのは、東京でのわずか10ヶ月にも満たない期間であった。 たみは1894年(明治27年)6月11日に豊田家で、長男・喜一郎を産んだ。佐吉はその半年も前に出奔し、たみが出産した時は家には居なかった。佐吉はどこからかともなく戻って来たが、生まれた子供の名前をつけると、再びどこへともなく家を出て行った。たみは2ヵ月後の8月に、乳飲み子の喜一郎を置いて豊田家を去った。育児放棄をした悪い母親のように言われることもあるが、豊田家と佐原家双方の話し合いの結果であったと思われる。 その後、たみは地元の有力な家である土屋家の高吉と再婚した。高吉とは何年かの結婚生活を過ごした後に別れている。ちなみに土屋高吉の息子・高次郎は1945年(昭和20年)12月から1947年(昭和22年)3月まで、鷲津町長を務めている。たみは土屋高吉との離婚後は、横浜や神戸の外国人家庭の家政婦として働いた。晩年は湖西市へ戻ってきた。 佐吉と浅子は1897年(明治30年)7月9日に、故郷で結婚式を挙げた。だが、この結婚の経緯には不明な点が多い。どの資料にも、佐吉と林政吉の長女浅子が見合いをして結婚したと書かれている。しかし、浅子はこれ以前に名古屋市宝町の豊田商店ですでに働いていたし、すでに一緒に住み始めていた。豊田家、林家双方に、正式に見合いという手順を踏んだ後に祝言を挙げたいという思いがあったと推測される。 浅子は働き者で、また経理も得意であった。一方、佐吉は発明しか頭にない男であった。だが、浅子はそんな佐吉の足らない面を充分に補った。彼女は小さな工場の奥さんとして振舞うことも出来たし、大会社の社長夫人としても振舞うこともできた聡明な女性であった。 浅子は佐吉没後、夫の偉大さを伝えることに心血を注いだ。現在、各所に残る佐吉の胸像やレリーフの多くが、浅子の手づくりである。また、浅子は佐吉の事績をまとめた「豊田佐吉傳」を與良松三郎の協力を得て、社内の田中忠治に執筆させて出版をした。
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