越後国主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 15:39 UTC 版)
これらの功績から、慶長3年(1598年)4月に越前北ノ庄18万石から越後春日山30万石へ加増移封され、その際に村上義明(9万石)、溝口秀勝(6万1000石)、堀親良(3万石)、堀直寄(1万石)を与力とした。秀治は24歳のため、豊臣秀吉は堀直政をして補佐せしめた。また、越後に移封された際、前国主の上杉景勝の家老である直江兼続が前半歳の租税を徴したので、返還を求めたが、上杉氏はこれを拒否した。秀治は入部すると春日山城の矢倉・堀の普請を行ない、慶長5年(1600年)には福嶋の地に居城移転の計画を立てた。慶長年間に二段階に分けて太閤検地方式を行う、従来の上杉検地方式の否定であり、上・中越後に総検地を実施し、幕藩体制の基礎を確立し、その後の越後諸藩の検地制度に大きな影響を与えた。
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