越後侵攻とは? わかりやすく解説

越後侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 22:12 UTC 版)

森長可」の記事における「越後侵攻」の解説

信濃国仕置き済ませた長可は、上杉景勝柴田勝家攻められている越中魚津城救援向かったという知らせ受けて同年5月23日に5,000の兵を率いて越後国への出兵開始越後国付近関川口の守り突破し芋川親正安田某らの守る田切城(妙高市大字田切東裏にあった城)を落として上杉深くまで侵攻した6月までに春日山城からほど近い二本木上越市)を守る上条景春を破り同地に陣を張った当時春日山城の兵は殆ど魚津城救援向かっていた。手薄な春日山城に長可が肉薄すると、上杉景勝春日山城防衛のために魚津城救援諦めざるを得なかった。景勝5月27日天神山城の陣を引き払い春日山城へと兵を返す事となった。これによって景勝援護得られなかった魚津城柴田軍の攻撃によって陥落し上杉軍越中国における重要な拠点を失う。 しかし6月2日本能寺の変信長討たれると、敵地深く進攻していた長可は一転して窮地に立たされた。6月8日には二本木の陣を払って越後国から撤退軍議開いて信長の仇を討つことを決定した。しかし信濃国衆にも信長死亡の報が伝わっており、長可配下信濃国衆たちは出浦盛清除いてほぼ全員が長可を裏切り軍を殲滅する為の一揆煽動していた。これに対し長可はまず海津城人質逃がさぬように厳命し、入城後はただちに人質連れて南進した。長可の家臣大塚右衛門一揆交渉したが、一揆衆は勢の前に立ちふさがったため、長可は合戦仕掛け勝利する軍は松本到着する人質を残らず処刑し木曽谷方面へと撤退した唯一撤退協力した出浦盛清に長可は深く感謝し脇差与えている。 撤退途中に長可は「木曽福島城木曾義昌暗殺画策している」という密告城下商売をしていた金山商人から受けた。長可は敢えて木曽福島城迂回せず、まずは到着予定日書いた書状義昌に送るとわざとそれより1日早い日取り、それも深夜遅く城門破城槌破壊して木曽福島城押し入るという策略実行した一気乱入した家臣らは義昌息子岩松丸(後の木曾義利)の身柄拘束し暗殺企み封じた翌日になり軍は木曽福島城を後にしたが長可は岩松丸を拉致したまま解放せずそのまま帰路無事に往く為の人質として利用している。東美濃入りした後も苗木遠山氏遠山友忠などが暗殺企てていたが、木曾家から手を出さぬようにと懇願された事で結局は手出しはされず軍は無事に旧領金山へと辿りついた。なお、安全圏達した判断した長可は金山程近い大井宿でようやく岩松丸を解放している。

※この「越後侵攻」の解説は、「森長可」の解説の一部です。
「越後侵攻」を含む「森長可」の記事については、「森長可」の概要を参照ください。

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