越後工作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 08:39 UTC 版)
この頃、天正9年(1581年)、盛隆と叔父・伊達輝宗は、越後国の新発田重家が後継者争い(御館の乱)の後に新たに越後国主となった上杉景勝に対して不満を募らせている状況を見て、上杉に対して反乱を起こさせるべく様々な工作を行った。6月16日、重家は一門衆のほか、同族加地秀綱ら加地衆や、御家騒動の際に景勝の対立勢力だった(上杉景虎方)豪族らを味方に引き入れ新潟津を奪取し支配、以降7年間に渡って景勝を苦しめる。 この頃、北陸地方で上杉氏と争っていた織田信長はこれを挟撃するべく、上杉氏を離反した新発田重家及び東北の諸大名の懐柔のため外交を始めた。当初、盛隆は上杉景勝とも誼を通じ度々連絡を交わしていたが、天正9年(1581年)に家臣の荒井万五郎を上洛させ信長と交渉を行った(これについては、『信長公記』『当代記』『異本塔寺長帳』『会津旧事雑考』『会津四家合考』などの史料に言及があるが、史料ごとに差異がある)。これは、盛隆から接近したとも、信長が景勝を挟撃するために盛隆を誘ったともいわれる。盛隆は信長に名馬3頭・蝋燭1000挺を献上すると、信長はこれに応えて、盛隆が三浦介に補任されるよう朝廷へ斡旋した。蘆名氏は三浦義明の末裔であり、盛隆にとって三浦一族代々の官途である三浦介を名乗ることは名誉であり、信長もこのことで盛隆の心を掌握しようとしたと考えられる。その後、盛隆は重臣の金上盛備を上洛させている。 信長と接近したことで、盛隆は上杉景勝との関係が疎遠になった。その後も景勝からは新発田氏挟撃などの援軍の要請などがあったが、盛隆はこれに対して曖昧な態度を取り続けることに終始し、天正10年(1582年)には景勝からの出兵依頼を断るどころか、金上盛備に重家を援護させ、赤谷城に小田切盛昭を入れるなど、重家を援護する介入を行った。
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