越後平氏の勢力拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 04:04 UTC 版)
維茂の息子たちの代で越後平氏の基盤が築かれる。嫡男の繁貞は越後国沼垂郡内で勢力を拡大していったが、この一族は検非違使として専ら京都に居住した。同郡奥山郷の地名を名字として、子孫に阿仏尼や、その父である奥山度繁(おくやまのりしげ)がいる。 越後平氏の主流となったのは三男の繁茂(繁成/重衛)で秋田城介に任じられているが、この地位には既に兼忠が任じられていた。繁茂は藤原登任と共に安倍頼良を攻撃して前九年の役を起こしている。繁茂の息子である貞茂(貞成)が城氏を称しているが、城の姓は明かに秋田城介に由来するものである。もっとも、城氏で秋田城介になった者はいない。 越後平氏は嫡流の城氏を中心にして勢力を拡大する。貞茂の息子の永基(長基)は「越後国住人」(後の国人)と称され、その息子の資国(助国)は出羽の清原武衡の娘と結婚しているのである。一見、越後平氏は越後国全体を掌握したかのように見えるが、実態は阿賀野川流域と北部に限られていた。このことは越後平氏の一族の姓氏が阿賀北部の荘園に由来していることからも伺える。
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