越後国村上小和田家とは? わかりやすく解説

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越後国村上小和田家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 14:44 UTC 版)

小和田氏」の記事における「越後国村上小和田家」の解説

皇后雅子実家小和田家の祖先越後国村上藩士の家系であり江戸時代から目付け役として仕えていた家柄であったが、小和田家の家系図火災などで紛失して幕末以前小和田家の江戸時代先祖の名前が不明になっている。村上藩内の女川辺に小和田という地名があり、新潟県関川村小和田村上小和田家の苗字発祥地である。村上小和田家のルーツ小和田駅がある静岡方面駿河国推測する人が多いが、小和田家の近い祖先越後村上5万石の譜代大名内藤家家臣務め下級武士であった雅子の父である小和田恆祖先には武術家官吏教育者がいる。 小和田家は越後国村上藩現在の新潟県村上市)の藩士の子孫で歴代当主村上藩士の傍ら、制剛(せいごう)流という柔術柔道ルール)の達人として村上藩以外の他藩でも有名な家柄であった敬宮愛子内親王誕生の際に村上市内で「おしゃぎり」の引き回し行事が行われたのは小和田家が村上市出身であったのが背景である。幕末から明治維新期に小和田家には兵五郎と兵五郎の子道蔵匡利がいたが、道蔵の子とされる(詳細不明である)金吉は税務官吏となって新潟県高田市現在の新潟県上越市)などに住んでいた。金吉は熊倉竹野結婚して長男の毅夫をもうけたその後金吉は明治33年病没した。金吉の妻である竹野は毅夫を伴い実家戻り助産婦資格取得して働きながら息子育てた。毅夫は雅子の父方の祖父である。 小和田毅夫は旧制新潟県高田中学校現在の新潟県立高田高等学校)から広島高等師範学校現在の広島大学)を卒業して全国各地旧制中学校教師務めて1934年昭和9年以降新潟県下の複数旧制高等女学校旧制中学校校長(特に母校旧制高田中学校の校長)を長期間務めた。毅夫は5人の男子3人の女子に恵まれて男子全員が毅の推薦枠入学した東京大学卒業である。長男小和田顯専修大学教授漢文学者で、二男小和田恆外交官で、弟たち運輸官僚2人弁護士である。姉妹1人夭折しているが、その他の姉妹2人戦前教師育成高等機関東京女子高等師範学校奈良女子高等師範学校卒業である。 小和田恆東京大学教養学部卒業後の昭和32年外務省入省して、ケンブリッジ大学留学している。条約など法制分野スペシャリストであった。毅夫の妻で雅子の父方の祖母にあたる静は新潟県塩沢町旧家田村家出身で、静の父の田村(嵩岡)又四郎旧制中学校教師長く務めていた。又四郎実家である嵩岡家も村上藩の子孫だが、彼の養父田村寛一郎は「私大日本帝国憲法案」という私擬憲法起草した碩学であった新潟県村上市の「まいずる公園」には又四郎実家である嵩岡家の建物復元公開されている。

※この「越後国村上小和田家」の解説は、「小和田氏」の解説の一部です。
「越後国村上小和田家」を含む「小和田氏」の記事については、「小和田氏」の概要を参照ください。

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