おしゃぎり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 07:15 UTC 版)
おしゃぎり(お囃子)とは、新潟県村上市で行われる村上大祭に曳きだされる山車(だし)のこと。 高さが5m以上あり、取り回しがいいように車輪が2つ付く。車輪は2mほどである。2階構造となっており、1階がお囃子を演奏する一間造りのスペースで、2階には“乗せ物”を飾るスペースとなる。繊細な彫刻や細工と彩りよく、堆朱・堆黒が施され金箔がちりばめられている絢爛豪華な山車である。乗せ物は各町内によって異なり、見送りと呼ばれる繊細な彫刻も特徴。 おしゃぎりと同等な大きさで白木造り、1階がお囃子と楽屋の二間構造のお囃子屋台や、おしゃぎりより簡素で車輪は小型、威勢の良い太鼓と笛の演奏が特徴な仁輪加(にわか)屋台もある。夜には提灯の灯りをまとった屋台がにぎやかなお囃子の音とともにゆらゆら揺れながら町を練り歩き、その様は大変情緒があり、幻想的である。 おしゃぎりは、昔の町人町に存在し、19町内、計19台のおしゃぎりがある。屋台は「しゃぎり屋台」「囃子屋台」「仁輪加屋台」の三つに分けられる。19町内の屋台のうち11町内がおしゃぎり屋台、6町内が囃子屋台、2町内が仁輪加屋台にあたる。 一番 久保多町(囃子屋台) 1812年(文化9年)に建造された。乗せ物は「住吉の景」で、大阪の住吉大社の景色を現した物。見送りは「松と双龍と波の彫刻」。屋台後方には楽屋があり、三味線、鼓、鉦、太鼓でお囃子を演奏する。乗り子は裃を着ている。7月7日早朝の小町坂を駆け上がる姿は、この祭りの見所の一つ。 二番 大町(しゃぎり屋台) 1874年(明治7年)に建造され、その後の大火で消失後、焼け残った部分を生かし、1934年(昭和9年)に新たに塗と彫りが施された。乗せ物は「諫鼓に鶏」。諫鼓とは、昔の中国で、君主に諫言したい者に打たせた太鼓の事で平和の象徴とされている。 三番 寺町(しゃぎり屋台) 1789年(寛政元年)に建造された。乗せ物は「費長房」で、曽我兄弟の仇討ちを題材とした「曽我物語」に登場する「鶴に乗った仙人」としてしられている。屋台の高欄の部分には、かぶに鼠、竹に虎、波に兎、欄下の龍など十二支にちなんだものが配置され、上がり段の波彫り、前庇の槌の水車など、名匠の作と言われています。 四番 大工町(しゃぎり屋台) 1796年(寛政8年)に建造された。乗せ物は、祝儀の席でよく歌われる「高砂の尉(翁)と 姥」。見送りは、「送り松」。町名の通り昔は大工が大勢住む町内で、屋台にも職人の技が見られる。特に少人数でも屋台を引き回す事ができる様に、木の内部をくりぬき軽量化されている。 五番 小町(しゃぎり屋台) 1805年(文化4年)に建造され、1872年(明治5年)の火災後、焼け残った部分を生かし1873年(明治6年)逐次再建されたもの。乗せ物は、七福神の一神「大黒天」。三宝(仏・法・僧)を守り飲食惠む神とされている。江戸時代になると商家では福の神として、農家では田の神として庶民の信仰の対象となった。見送りは、「鶴の衝立」。 六番 塩町(しゃぎり屋台) 1772年(安永元年)に建造されたもので、19台の屋台の中で2番目に古い。乗せ物は、中国の伝説上の生き物「猩々」。日本では、能楽の曲名として知られている。親孝行な息子の素直な心を賞して、汲めど尽きない酒の泉を与え、舞を舞うというのが謡曲の筋になっている。 この猩猩の舞う姿を模したもの。見送りは、「大蓑亀」。 七番 上町(しゃぎり屋台) 1850年(嘉永3年)に建造された。 当時、町内に住んでいた村上の名工「有磯周斎」が中心となり、村上彫刻の粋を集めたものと言える。乗せ物は「大梵鐘」で、「寛永十年六月吉日」「羽黒大権現」という銘がある。見送りは、「双龍の彫刻」。この龍は、一階部分にある二匹の鯉の「鯉の滝登り」の様の描いている。 八番 細工町(囃子屋台) 1924年(大正13年)に建造された。前の屋台と同じ形式で造りられたもので、簡素な能舞台を原型にしたもの。乗せ物は「三番叟」。能楽の祝言曲の式三番で、三番目に老人が黒い能面をつけて舞うことからその名がついた。見送りは、「若松」。お囃子の調子は三下り。 九番 安良町(囃子屋台) 1856年(寛政3年)に建造された。乗せ物は「住吉の景」。久保多町の乗せ物とは違い、松の木一本で表している。見送りは「竜と虎」。お囃子は、二上りの「樂くずし祇園ばやし」お囃子は現在の屋台の建造年代より83年古く、1773年(安永2年)にできている。 十番 小国町(しゃぎり屋台) 1774年(安永3年)に造られた屋台で三番目に古い。全体として朱、青、黄の色漆、金銀箔、青貝摺、卵殻などさまざまな塗りの技法を用いている。一層腰屋根が四面とも踏破風になっている。乗せ物は「孟宗」。中国の二十四孝の一人で真冬に筍が食べたいという母のために雪の降る中を筍を取りに出て母親に供したと言われている。親孝行のモデル。見送りは「桐に鳳凰」が金糸の刺繍で施されている衝立。 十一番 鍛冶町(囃子屋台) 1792年(寛政4年)に建造された。お囃子屋台の中では塗りの施されたものとなっている。乗せ物は「二見浦の景」。夫婦岩を配りし見送りと高欄には「立浪」の彫刻が施されている。鍛冶町のお囃子は村上市の無形文化財に指定されている。 お囃子の行きの曲は、早朝漁のため港を出る船の情景を表し、帰りの曲は、豊漁の喜びにわき港に帰る船の情景を表している。 十二番 肴町(しゃぎり屋台) 1760年(宝暦10年)に造られた屋台で現存する屋台では一番古い屋台である。乗せ物は「鯛に乗った恵比寿様」。屋台後方の見送りをはじめ彫刻は「宝尽くし」で彩られている。屋台一階の天井の絵は、桐に鳳凰がいろどられている。 十三番 長井町(しゃぎり屋台) 1869年(明治2年)に古い屋台の部材を利用して、明治初年に再建されたもの。当時一階だった屋台を二階にした。乗せ物は「布袋様」。この乗せ物は、19の屋台の中で唯一カラクリ仕掛けがあり、布袋様が顔を左右に振ったり、舌を出したりする。布袋様は中国の禅僧「布袋和尚」を期限として江戸時代には七福神の一つに数えられた。見送りは、「雲と鶴の彫刻」。 十四番 羽黒町(しゃぎり屋台) 1998年(平成10年)に建造された。羽黒町の屋台は村上では64年ぶりに新造された屋台である。それまでは仁輪加屋台であった屋台を地元の職人が伝統技術と現代感覚を調和し、しゃぎり屋台に新調した。乗せ物は「大天狗」で西奈彌羽黒神社に奉納されている「大天狗の面」をモデルとしたものである。 見送りは、「鳥天狗の彫刻」。 十五番 庄内町(しゃぎり屋台) 1995年(平成7年)に再建したにわか屋台から1999年(平成11年)にしゃぎり屋台に改造した。その後も建造を続け、少しずつ変化していき2015年(平成27年)に完成。 2002年(平成14年)に乗せ物を「瓢鮎図」に新調した。見送りは、「兎の衝立」。 十六番 片町(囃子屋台) 1933年(昭和8年)に建造された。しゃぎり屋台の形式で樂は、はやし調子になっている。乗せ物は「蘭陵王」。見送りは、「唐獅子の衝立」。2009年(平成21年)に新しい屋台が越後村上古建築研究会によって建造された。 十七番 上片町(囃子屋台) 1934年(昭和9年)に建造された。片町同様、しゃぎり屋台の形式で樂は、はやし調子。乗り子は水色の帷子と黄色の裃を着て、大太鼓、小太鼓、摺り鉦、そして笛の音で荘重の中に優雅な調子を奏でます。乗せ物は「天鈿女命」(アメノウズメノミコト)。2000年(平成12年)に見送りを元々「岩」だったものを「三階の松」に新調した。 十八番 加賀町(仁輪加屋台) 1988年(昭和63年)に造り変えられた。お囃子屋台、しゃぎり屋台とは違い笛と太鼓だけで演奏する。車輪も小さいため軽快な動きが特徴。が乗せ物は「舌きり雀のおじいさん」。舌切り雀の良いおじいさんが宝の入った葛篭を担いでいる姿。見送りは、「松」。 2011年(平成23年)に屋根を新調。 2012年(平成24年)に提灯を新調。 十九番 泉町(仁輪加屋台) 1992年(平成4年)に造り変えられた屋台。加賀町同様、にわか屋台。2013年(平成25年)に車輪を新調した。乗せ物は「二ノ宮金次郎」。見送りは、「松」。松の枝が三段になっており、上から下へと次第に長くなっている。
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おしゃぎり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 03:57 UTC 版)
大祭では「おしゃぎり」と呼ばれる屋台が曳き出される。おしゃぎりは、大祭に参加する瀬波の浜町、中町、新田町、上町、学校町の5町によって出され、各町ごとに特色があり、2階には「乗せ物」、2階後方には「見送り」が飾られている。 おしゃぎりの構造は、関東地方や祇園祭などの山車に見られる四輪ではなく、二輪型の山車で方向転換がしやすい。同じような構造の二輪屋台は、新潟県の下越地方、遠州の掛川祭など東海道沿いに多く見られる。 いつ頃から屋台が曳かれるようになったかについては分かっていないが、西奈彌神社自体は延喜式神名帳に記載され1200年以上の歴史が有り、尚且つ氣比神宮と祭礼の日程が同じ事から、御神楽(おかぐら)などの祭礼は当初から行われていたものと思われる。 瀬波の三面川河口に位置する地形上の問題から、河川の氾濫による洪水、地震による津波などにみまわれ、また1885年(明治18年)の大火災と、何度も災害にあい、神社の歴史・大祭や屋台に関する資料が流失・焼失し殆ど残っていない状況である。神社の位置も横町→新田町(三面川河口附近)→浜町と再建の際に移動したと言い伝えられている。 おしゃぎり自体の資料から分かる事としては、上町で保管されている部品や道具の箱書きから、享保年間には既に製作され、曳き回されていたと見られている。 瀬波のおしゃぎりと、その他の村上市内のおしゃぎりの違いとしては、瀬波の屋台は威勢よく曳き回され、木遣りで走る事もある為、大勢で曳けるように、すべての屋台が三本手木(担ぐ棒が3本)である。さらに手木の先には米俵に使われる桟俵(米俵の底の部分)をガチガチに縄で巻付けたもの、これを「サンバイス」といい、激しく落としたり擦ったりした時のクッションの役割を果たしている。
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