景虎の守護代擁立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:45 UTC 版)
天文17年(1548年)、藤資は長尾為景の跡を継いだ晴景に替えてその弟の長尾景虎(後の上杉謙信)を守護代に擁立しようと画策した。まず北信濃国の中野城主で景虎の叔父である高梨政頼と結び、越後の国人たちの調略を裏で進めている。景虎の補佐役である本庄実乃を始め、景虎の母方の家である栖吉城主長尾景信、箕冠城主大熊朝秀、与板城主直江実綱、三条城城主山吉行盛らが加わり景虎派を形成していった。この動きが守護代・晴景の知るところとなり、親晴景派の坂戸城城主長尾政景や藤資と対立する同族の黒川城城主黒川清実らと武力抗争となった。しかし同年12月30日、この事態を憂いた守護・定実の調停によって和議が結ばれ、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲り隠退した。景虎は19歳で守護代長尾家の家督を相続した。 2年後の天文19年(1550年)2月26日、定実が後継者を遺さずに死去したため、同月、守護代・景虎は室町幕府から「白傘袋」と「毛氈の鞍覆」の使用を許され越後国主として認められることとなる。この時期守護代の地位を得ていたことは、景虎改め上杉謙信が戦国大名として飛躍する上で必要不可欠な要素であり、景虎政権にとっては最重要ともいえる事件である。以後藤資は景虎の重臣として一門に次ぐ待遇を受けた。
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