景虎の攻勢と周囲の加勢とは? わかりやすく解説

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景虎の攻勢と周囲の加勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 23:31 UTC 版)

御館の乱」の記事における「景虎の攻勢と周囲の加勢」の解説

工作によって諸将旗幟鮮明になってきた5月13日景虎三の丸から退去し同日のうちに御館移り籠城して北条氏政救援要請する一方で配下命じて春日山城下に放火を行うなど撹乱戦術展開した17日には約6000の兵で春日山城攻め立てたが、撃退された。 景虎方体勢立て直し22日にも再び春日山城攻めたが、結果は変わらなかった。この頃になると、他方面でも景勝方景虎方交戦展開されていった中でも上野では北条高広・景広父子中心となり、三国峠を守る宮野城目指し進軍開始したこの方面では景勝方はよく持ちこたえたものの景勝には援軍を送る余裕はなく、景虎方後詰め得られなかった景勝方宮野小川等の城をことごとく奪い小田原北条勢を越後引き入れる態勢作り上げたのである。 ところが、氏政・氏照ら北条軍主力は、折しも鬼怒川河畔において佐竹宇都宮連合軍交戦中であり、遠方越後向けて早急に救援軍派遣できる状況では無かったので、当面の策として同盟国武田勝頼景虎への助勢要請した。これを受けて勝頼は、5月下旬武田信豊先鋒とする2万大軍信濃経由越後送り込み5月29日頃に信越国境付近に到着した景虎はさらに、奥羽蘆名盛氏伊達輝宗らにも援軍要請した。これに応えて蘆名勢は蒲原安田城攻略、さらに兵を新発田へと進めたが、景勝方五十公野治長頑強な抵抗遭って食い止められた。とはいえ、この時点においては戦局依然として景虎方有利であった

※この「景虎の攻勢と周囲の加勢」の解説は、「御館の乱」の解説の一部です。
「景虎の攻勢と周囲の加勢」を含む「御館の乱」の記事については、「御館の乱」の概要を参照ください。

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