景虎の滅亡と乱の終息
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 23:31 UTC 版)
外部勢力の干渉を巧みに排除し、家中の支持を集めた景勝は、改めて雪解け前の乱の終息を決心した。一方、景虎方は味方の相次ぐ離反や落城を止められず、窮地に陥った。そして天正7年(1579年)2月1日、景勝は配下諸将に御館の景虎に対する総攻撃を命じた。早くも同日には景広を荻田長繁が討ち取り、方々に火を放った。 小田原北条勢の橋頭堡であった樺沢城も景勝方に奪回された。雪に阻まれて北条勢からの救援も望めず、3月17日には謙信の養父である上杉憲政が御館から脱出し、和議を求めて景虎の長子・道満丸を連れて景勝の陣に出頭する途中で景勝方に包囲され、道満丸もろとも殺害された。御館は放火されて落城し、景虎は御館を脱出して逃亡中、鮫ヶ尾城に寄ったところを景勝方に寝返った城主堀江宗親に攻められ、24日に自害した。 越後を二分した内乱は景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となったが、最後まで抵抗した本庄秀綱や神余親綱らを攻めて最終的に乱が終息したのは、それから1年余り経った天正8年(1580年)のことであった。
※この「景虎の滅亡と乱の終息」の解説は、「御館の乱」の解説の一部です。
「景虎の滅亡と乱の終息」を含む「御館の乱」の記事については、「御館の乱」の概要を参照ください。
- 景虎の滅亡と乱の終息のページへのリンク