山浦国清とは? わかりやすく解説

山浦国清(やまうら くにきよ) ????~????

村上氏 源五 景国
◇父:村上義清 室:上杉謙信養女(朝倉義景女) 子:山浦織部助幸清 養子山浦(会田)高国
 村上氏信濃土豪だが、甲斐・武田氏に逐われて越後長尾(上杉)氏臣となる。上杉一門山浦氏継ぎ重臣列した。主に越中能登方面戦っている。1598年上杉氏会津移封に伴い、塩之森城となった。後に上杉家辞去し、京で没。

山浦景国

(山浦国清 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/10 06:37 UTC 版)

 
山浦 景国
時代 戦国時代後期 - 安土桃山時代
生誕 天文15年(1546年[1][2]
死没 慶長3年(1598年1月以降[3][4]
改名 村上国清、長尾国清、山浦国清、景国[5][2]
別名 武王丸、源五[2]
戒名 拾遺決山源勝大居士[6]
官位 蔵人[7]兵部少輔[2]
主君 上杉謙信景勝
氏族 信濃村上氏長尾氏山浦上杉家[5]
父母 父:村上義清[注釈 1]、母:小笠原長棟の娘[9]
養父:上杉謙信[5]
幸清、頼元[10]
養子:高国[9]
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山浦 景国(やまうら かげくに)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将上杉氏の家臣。本名は村上 国清[5]

生涯

信濃国埴科郡の領主・村上義清の子。信濃村上氏甲斐武田氏と争うが敗北し、弘治3年(1557年)には越後国の長尾景虎(上杉謙信)の下へと走った。父の義清は根知城に在番したが、嫡男の国清は証人として春日山城に置かれたものと思われ、後に景虎の養子に迎えられ長尾氏を称した[5]。父とともに川中島の戦いに従軍したという[2]

義清は当時断絶していた山浦上杉家の旧地である蒲原郡山浦4万貫を与えられており[注釈 2]永禄末年までに国清は上杉氏の傍流である山浦氏を称するようになる[11][12]天正3年(1575年)に作成された軍役帳によると、国清は上杉一門衆の中で謙信の甥である上杉景勝に次ぐ二番目に記載されており、他の一門より上位に位置付けられていたようである[注釈 3]。国清は上杉家の重臣として織田氏徳川氏飛騨国衆などの取次役を務めるなど重用されたが、その際には従前の通り村上氏を称している。外交においては由緒ある村上氏を用いることに利便性があったのだろう[5][14][4]

天正6年(1578年)謙信が死去し、御館の乱が起こると上杉景勝に加勢。翌年に上杉景虎が討たれた後、景勝よりの一字を与えられて「景国」と改名した[5][14][12][4][2]

天正10年(1582年天正壬午の乱で上杉軍が北信濃に進駐すると、景国は他の旧北信国衆とともに旧領への復帰を果たし、海津城に入って更級埴科高井水内4郡の支配を任される[15][12][16]。しかし天正12年(1584年)城将の屋代秀正徳川氏の元へ出奔したことの責任を問われて失脚。信濃旧領は没収され[注釈 4]、城将の地位は上条政繁に交代させられることになった[15][19][12][4]。なお山浦領については安堵を受けたようであり、以後は村上氏の称を併用することもなくなった[20][4][21]

天正18年(1590年小田原征伐では上州方面より進攻する上杉軍の先手として従軍[22]文禄3年(1594年)の分限帳には2,277石余を知行したとあり、全盛期より減知されていることが窺える。また須田満親岩井信能のような「信州侍中」ではなく「越後侍中」と分類されている[20][23]慶長3年(1598年)上杉家が会津転封された際には塩松城6,500石に同心20人2,400石を宛がわれたが、この頃に景国は京都で死去したようで、山浦家中と同心衆は直江兼続の預かりとなった[注釈 5][20][21][3][4]

子孫

近世水戸藩士となった村上氏は戦国期の文書を数点所蔵しており、信濃村上氏の子孫である蓋然性が高い。家祖の高国は村上義清の外孫で、景国にとっては甥にあたることになる[注釈 1][24]。なお高国は致仕後に丹波国桑田郡保津村に移住したといい、こちらにも子孫が続いた[25]

一方、近世初頭に『村上家伝』という系図類を作成し、自ら信濃村上氏の後裔(景国の孫)と喧伝していた人物に村上義豊がいる。その家伝によると景国には幸清[注釈 6]という遺児がいたが、幼時に村上高国によって家督を横領されたために生母に連れられて本多忠勝、次いで真田信之を頼ったが、念願の幕臣取り立ては叶わず寛永13年(1636年)に病死したという。義豊はこの幸清の子で、浪人ながら自身が村上氏正嫡であることを盛んに喧伝して家名復興を願ったが、叶わず故地信濃へと帰り、正徳6年(1716年)に没した[27][28][29]。義豊の編んだ『村上家伝』が引く古文書はいずれも偽文書であり、また近世より前の内容には荒唐無稽なものも多く信じるに値しないが、その家系図と義豊の子孫は村上旧臣の子孫を自負する者たちに尊重された[30]

その他、水内郡芋河庄の村上氏が景国の末裔を称している[10]

脚注

注釈

  1. ^ a b 近世水戸藩に仕えた村上氏の手による系図は、実父を村上義清の兄・義兼としている。ただし同系図の近世より前の記述には多くの誤りを含んでいる[8]
  2. ^ 義清が山浦氏を名乗った形跡はない[11]
  3. ^ 国清の次位には上条上杉家の上杉信虎と上条政繁、八条上杉家の琵琶島弥七郎、山本寺上杉家山本寺定長が列記される[13]
  4. ^ 故地の坂城郷観音寺城に帰り、慶長3年(1598年)の会津転封まで在城したとする説もある[17][18]
  5. ^ 信濃村上氏の菩提寺・満泉寺の寺記は、天正13年(1585年)景勝が真田信繁に景国旧領を与えたことを不服として出奔し、文禄2年(1593年2月19日伏見で没したとしている[17]。本文にあるように景国の活動は慶長年間まで確認できるため、文禄年間に死去したとするのは誤りである[6]
  6. ^ 『村上家伝』は景国の名を「国清」とし、「景国」は幸清の別名としている[26]

出典

  1. ^ 山本 & 小和田 1985, p. 520.
  2. ^ a b c d e f 『更級郡埴科郡人名辞書』, p. 484.
  3. ^ a b 片桐 2017, pp. 14–15.
  4. ^ a b c d e f 山本 & 小和田 1985, p. 521.
  5. ^ a b c d e f g 片桐 2017, p. 1.
  6. ^ a b 小林 1982, p. 238.
  7. ^ 山本 & 小和田 1985, p. 519.
  8. ^ 小林 1982, pp. 237–238.
  9. ^ a b 小林 1982, p. 235.
  10. ^ a b 『更級郡埴科郡人名辞書』, p. 486.
  11. ^ a b 今福 2011, p. 114.
  12. ^ a b c d 山本 & 小和田 1985, p. 518.
  13. ^ 今福 2011, p. 106.
  14. ^ a b 小林 1982, p. 226.
  15. ^ a b 片桐 2017, pp. 1–2.
  16. ^ 宮 & 山田 1986, § 埴科郡.
  17. ^ a b 『更級郡埴科郡人名辞書』, p. 485.
  18. ^ 宮 & 山田 1986, § 観音寺城跡.
  19. ^ 小林 1982, pp. 226–227.
  20. ^ a b c 片桐 2017, p. 6.
  21. ^ a b 小林 1982, p. 227.
  22. ^ 阿部 & 西村 1987, p. 765.
  23. ^ 小林 1982, pp. 227–228.
  24. ^ 小林 1982, pp. 237–241.
  25. ^ 『更級郡埴科郡人名辞書』, p. 487.
  26. ^ 小林 1982, p. 246.
  27. ^ 小林 1982, pp. 245–247.
  28. ^ 『更級郡埴科郡人名辞書』, pp. 480–482.
  29. ^ 『更級郡埴科郡人名辞書』, p. 504.
  30. ^ 小林 1982, pp. 245–248.

参考文献




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