越中一向一揆と加賀一向一揆の合流とは? わかりやすく解説

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越中一向一揆と加賀一向一揆の合流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:10 UTC 版)

尻垂坂の戦い」の記事における「越中一向一揆と加賀一向一揆の合流」の解説

元亀2年1571年4月28日武田信玄後継者である武田勝頼北陸における一向一揆主将杉浦玄任杉浦壱岐守)に書状送り加賀越中一向一揆協力して謙信対抗するよう求めた信玄は、上洛する上で背後の敵である謙信牽制する必要があった。このため信玄石山本願寺顕如に、越中一向一揆謙信対し蜂起するよう要請している。 翌・元亀3年1572年5月顕如より総大将任命され杉浦玄任率い加賀一向一揆謙信に対して挙兵し、これに呼応して越中一向一揆拠点である勝興寺瑞泉寺一斉に蜂起した杉浦玄任永禄10年1567年)に越前侵攻し朝倉義景との戦いで勇名馳せた名将であった。また勝興寺率いていたのは顕栄瑞泉寺率いていたのは第七住職・顕秀であった。さらに椎名康胤神保長城神保長職の子)も一揆勢に味方する。これに対し謙信は、関東上野において信玄及び相模北条氏政対立していたため、自ら出馬できず。上杉家家臣である越中の鎮将・河田長親は、一揆勢に対抗するため吉江忠景を派遣5月19日、忠景は太田本郷(現・富山市)に陣を張った越中一向一揆加賀一向一揆合流、3越え大軍膨れ上がった一揆勢は23日河上五位庄(現・高岡市)に陣を張った上杉方の前線基地日宮城火宮城とも。現・射水市)は一揆勢から激し攻撃を受け、城兵鉄砲弾薬不足するなど危機的状況陥った同日、守将の神保覚広・小島職鎮等は、新庄城(現・富山市)の鰺坂長実後詰め求めている。 上杉諸将鰺坂長実河田長親山本寺定長談合して日宮城救援向かい西進神通川越え五服山にて6月15日一揆勢の大軍衝突した五福山の戦い)。上杉軍奮戦するも衆寡敵せず後退新庄城退却する途中神通川渡し場において一揆勢の猛追を受け、大敗喫した援軍期待できなくなり孤立した日宮城は、その日の内に降伏開城し、守将の神保覚広や小島職鎮能登石動山天平寺逃れた一揆勢の勢い止まらず神通川西岸白鳥城東岸富山城をも陥落させる7月29日には上杉方の山浦国清信濃葛尾城主・村上義清嫡男)の陣を攻撃上杉方は河田長親救援駆けつけ数十人を討ち捕らえるも、上杉軍多く負傷者出している。一揆勢は、これら一連の大攻勢により、越中西部から中部にまで勢力拡大上杉軍苦戦し日宮城に代わって上杉方の前線基地となった越中中部拠点新庄城は、落城危機陥った

※この「越中一向一揆と加賀一向一揆の合流」の解説は、「尻垂坂の戦い」の解説の一部です。
「越中一向一揆と加賀一向一揆の合流」を含む「尻垂坂の戦い」の記事については、「尻垂坂の戦い」の概要を参照ください。

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