越中一向一揆と加賀一向一揆の合流
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「尻垂坂の戦い」の記事における「越中一向一揆と加賀一向一揆の合流」の解説
元亀2年(1571年)4月28日、武田信玄の後継者である武田勝頼は北陸における一向一揆の主将・杉浦玄任(杉浦壱岐守)に書状を送り、加賀・越中の一向一揆が協力して謙信に対抗するよう求めた。信玄は、上洛する上で背後の敵である謙信を牽制する必要があった。このため信玄は石山本願寺の顕如に、越中で一向一揆が謙信に対し蜂起するよう要請している。 翌・元亀3年(1572年)5月、顕如より総大将に任命された杉浦玄任率いる加賀一向一揆が謙信に対して挙兵し、これに呼応して越中一向一揆の拠点である勝興寺・瑞泉寺が一斉に蜂起した。杉浦玄任は永禄10年(1567年)に越前に侵攻し、朝倉義景との戦いで勇名を馳せた名将であった。また勝興寺を率いていたのは顕栄、瑞泉寺を率いていたのは第七世住職・顕秀であった。さらに椎名康胤と神保長城(神保長職の子)も一揆勢に味方する。これに対し謙信は、関東・上野において信玄及び相模の北条氏政と対立していたため、自ら出馬できず。上杉家家臣である越中の鎮将・河田長親は、一揆勢に対抗するため吉江忠景を派遣。5月19日、忠景は太田保本郷(現・富山市)に陣を張った。越中一向一揆は加賀一向一揆と合流、3万を越える大軍に膨れ上がった一揆勢は23日、河上五位庄(現・高岡市)に陣を張った。上杉方の前線基地・日宮城(火宮城とも。現・射水市)は一揆勢から激しい攻撃を受け、城兵の鉄砲の弾薬が不足するなど危機的状況に陥った。同日、守将の神保覚広・小島職鎮等は、新庄城(現・富山市)の鰺坂長実に後詰めを求めている。 上杉方諸将の鰺坂長実・河田長親・山本寺定長は談合して日宮城の救援に向かい西進、神通川を越え五服山にて6月15日、一揆勢の大軍と衝突した(五福山の戦い)。上杉軍は奮戦するも衆寡敵せず後退、新庄城へ退却する途中の神通川渡し場において一揆勢の猛追を受け、大敗を喫した。援軍を期待できなくなり孤立した日宮城は、その日の内に降伏開城し、守将の神保覚広や小島職鎮は能登の石動山天平寺へ逃れた。一揆勢の勢いは止まらず、神通川西岸の白鳥城、東岸の富山城をも陥落させる。7月29日には上杉方の山浦国清(信濃葛尾城主・村上義清の嫡男)の陣を攻撃、上杉方は河田長親が救援に駆けつけ数十人を討ち捕らえるも、上杉軍は多くの負傷者を出している。一揆勢は、これら一連の大攻勢により、越中の西部から中部にまで勢力を拡大。上杉軍は苦戦し、日宮城に代わって上杉方の前線基地となった越中中部の拠点・新庄城は、落城の危機に陥った。
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