越中の九右ェ門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:55 UTC 版)
興国寺(富山市)の伝説によると、龍興は戦死してはおらず、家宝系図を持って永禄12年(1569年)、3月に越中国新川郡布市村に来て、興国寺に隠れた。天下の情勢から家を再興する事かなわずと悟った龍興は、九右ェ門と改名し、付近の原野を開拓した。開拓に当たって、「仏の力である、お経の力なり」と一族を励ましてこの地に住みついた。 信長と本願寺の石山合戦が終わった天正8年(1580年)に九右ェ門はこの地を経力村と名づけた。 江戸時代に入った慶長16年(1611年)、九右ェ門は家督を子に譲り、草高を持参して布市興国寺で出家、住持となった。興国寺には、龍興が持参したという鎧鞍と念持仏(木造阿弥陀如来立像)が伝えられている。 寛永9年(1632年)6月19日に示寂し、墓は富山市経力の本誓寺の前にあるという。享年87。 九右ェ門の子孫は、文政3年(1820年)11月、越中国新川郡大泉村(現・富山市大泉)に移り、後に大正2年(1913年)11月、富山県新川郡堀川村小泉(富山市堀川小泉)に転住したという。
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