越ヶ谷宿の指定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 04:09 UTC 版)
越ヶ谷宿は、江戸幕府の成立後すぐに奥州街道の宿場に取立てられ、正式な宿場となった。元荒川の対岸である大沢村も町場化し、越ヶ谷の伝馬上の助郷村として大沢宿が成立しており、慶安3年(1650年)には越ヶ谷宿・大沢宿に地子免許が与えられていた。 両町の伝馬機構は合体され、交通上は両町合わせて越ヶ谷宿とされた。 慶長17年(1612年)以前には、現元荒川の左岸の大沢は、既に、下総国葛飾郡から武蔵国埼西郡(埼玉郡)に編入されていた。 越ヶ谷宿の開発は、寛永12年(1635年)の参勤交代制の制定、寛永13年(1636年)の日光東照宮造営の竣工、日光社参の制度化に伴い、承応3年(1654年)越ヶ谷宿は、助郷村であった大沢村の両町の宿場機能の両者により完成したという。江戸時代初期、慶安3年(1650年)に越ヶ谷・大沢宿などに地子免許を与えた。元禄9年(1696年)には、越ヶ谷と大沢の規模は、伝馬制に伴い、越ケ谷、大沢両町に各5,000坪の地子免がなされ、越ヶ谷9町20間、大沢9町27間とほぼ均等の町場が形成されたという。。
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