越ヶ谷と大沢の宿場町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 04:09 UTC 版)
当初、越ヶ谷町の本陣、問屋役持回りなど宿場の要職は会田一族に集中していた。しかし、安永2年(1773年)越ヶ谷町と大沢町両町惣百姓大評定のうえ伝馬業務両町合体を決め、越ヶ谷宿の宿駅機構の改革とその伝統的権威の多くの失墜のため、安永3年(1774年)に、越ヶ谷宿の本陣は越ヶ谷町の会田八右衛門から、大沢町の福井家へ移った。そのために、越ヶ谷宿の町場構造は、越ヶ谷町に商店の集中が見られ、大沢町に旅籠機能の集中が見られるという特徴的を町構造を造った。 越ヶ谷と大沢の総戸数の記録があり、寛延3年(1750年)の記録によると、大沢町が総戸数は383軒である。百姓63軒、地借30軒、店借262軒であった。『日光道中宿村大概帳』に拠ると、越ヶ谷町は総戸数542軒である。百姓125軒、地借、店借412軒であった。
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