越の謀臣とは? わかりやすく解説

越の謀臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 23:35 UTC 版)

范蠡」の記事における「越の謀臣」の解説

范蠡がどこで生まれたのか、どのような経緯で越の允常勾践の父)に仕えようになったのか、彼の経歴による明確な確証がない。 隣国の呉王闔閭伍子胥孫武らの補佐受けて強勢誇っていた。越王允常は范蠡補佐国力伸ばしていた。しかし紀元前496年允常逝去し太子勾践が父の後を継いだ允常訃報聞いて喪中服している越に対して闔閭出る杭先んじて叩いてしまおう判断し攻め込んできた(欈戦い)。しかし、欈現在の浙江省嘉興市海寧市)で、范蠡はこれに対して奇計持って迎えた。その奇計と言うのは決死隊(『左伝』では罪人。こちらが正確か)を集めて敵の目の前まで行かせてそこで自ら首をはねさせるという物で、呉軍仰天している隙を付いて越軍は呉軍撃破した。越の武将霊姑孚が射た矢で片足を破傷したのが原因闔閭陣没し、太子夫差立った夫差伍子胥補佐を受け、越への復讐臥薪)を狙い、それを知った勾践今のうちにと呉を叩こう出兵ようとしたが、范蠡はこれを諌めた。しかし勾践聞き入れず出兵し、大敗してしまった。勾践夫差対し平身低頭命乞いをし、更に家臣の中の文種は夫差側近伯嚭(嚭は喜否)に賄賂贈って夫差勾践助けるように吹き込んだ。この時に伍子胥勾践を殺す事を強弁したが、夫差はこれを取り上げず勾践解放し夫差馬役人にさせた(嘗胆)。

※この「越の謀臣」の解説は、「范蠡」の解説の一部です。
「越の謀臣」を含む「范蠡」の記事については、「范蠡」の概要を参照ください。

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