ふさ【夫差】
夫差
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/15 14:07 UTC 版)
夫差(ふさ)は、中国春秋時代の呉の第7代、最後の王。姓は姫。春秋五覇の一人に数えられることがある。先代の呉王闔閭の次男。越王勾践によって討たれた父の闔閭の仇を討つため、伍子胥の尽力を得て国力を充実させて覇を唱え、一度は勝利したものの、勾践の反撃により敗北して自決した。
- ^ 杜預の『春秋経伝集解』および司馬貞の『史記索隠』が引く『竹書紀年』と『呉郡図経続記』より。『春秋左氏伝』では太子終纍と表記。
- ^ 実際は闔閭は夫差よりも末子の子山の器量を買っていたが、伍子胥の進言で断念した。
- ^ 『春秋左氏伝』では王孫弥庸と表記され、具体的な親族の血縁上の系譜関係は不明だが、父は夫差の子の公子姑曹と記述され、公孫弥庸は亡き父の軍旗を越が使用していたのを見て「あれは越の捕虜となったわが父の軍旗だ。その敵の越を殺さぬわけにはいかない」と言った。それを見た同族の太子友は「戦いに勝たないと国が滅ぶ。しばらく待ったほうがいい」と諌めている。しかし公孫弥庸はこれを聞き容れず、5千人の軍勢を率いてこれを迎え撃った。夫差の末子の公子地(『春秋左氏伝』では王子地)が公孫弥庸を援助した。公孫弥庸は越の将軍の疇無餘を、公子地は同じく謳陽を捕獲したと記述されている。公子地に関しては越王勾践率いる本軍が到着すると陣営を固めたと、記述された以降の消息は不詳である。
- ^ 『呉越春秋』および『東周列国志』によると、呉王僚の子で怪力の持ち主。公子慶忌の存在を恐れた闔閭と伍子胥によって派遣された刺客の石要離(要離)に惨殺された設定となっている。
- ^ 『春秋左氏伝』では「王孫駱」とする。呉王夫差との具体的な親族の血縁上の系譜関係は不明。
- ^ 『史記』越王勾践世家第十一「呉王謝曰 吾老矣不能事君王 遂自殺乃蔽其面曰 吾無面以見子胥也」なお、『春秋左氏伝』では伍子胥のことは触れずに「私は年を取って、あなた(勾践)に奉仕することはできない」と述べて縊死した。
- ^ 『春秋左氏伝』哀公二十四年の項では、伯嚭の刑死の記述はなく越の太宰嚭として、わずかに記されている。
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