呉王僚
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呉王僚(ごおう りょう)は、中国春秋時代の呉の第5代の王。姓は姫。諱は僚または州于。青銅器「王子吁戈」[2]の銘文では、名は詨、字は吁[2]。ここでは『史記』呉太伯世家を中心に記述される。
- ^ a b c d e 『春秋左氏伝』より。
- ^ a b 吁の原文は「于」偏に「欠」で、吁の古字と異体字。
- ^ 青銅器「𠭯巣編鐘」の銘文および『春秋左氏伝』では寿夢の庶子。『史記』呉太伯世家では余昧の子と記されている。
- ^ 『呉越春秋』および『東周列国志』によると、呉の公子慶忌の父となっており、公子慶忌の存在を恐れた呉王闔閭と謀臣伍子胥によって派遣された刺客の石要離(要離)に惨殺された設定となっている。
- ^ 『春秋左氏伝』では呉王僚と掩余・燭庸に関する具体的な親族の血縁上の系譜関係は記されていない。
- ^ 『春秋公羊伝』では僚は季札の庶兄。
- ^ 『史記索隠』が引く唐の孔穎達の言によると、公子光(闔閭)は余昧の子。
- ^ 『春秋左氏伝』によると、伍子胥は呉王僚に楚を攻略する利点を説いたが、公子光は「(伍子胥は)一家を惨殺されたので、その仇を報復するために説いているのですから聞き容れてはなりません」と述べている。
- ^ 『春秋左氏伝』では鱄設諸。専諸が召しだされたときに彼は「呉王僚は弑せますが、(自分が殺害された後の)老母とわが息子はどうなりますか?」と闔閭に問うた。闔閭は「わしはそなたと一心同体だ。そなたが万が一のことがあれば一生面倒をみよう」と述べている。
- ^ 『史記』呉太伯世家と『春秋左氏伝』の記述とは大いに異なり、こちらは公子の光(闔閭)は「叔父」にあたる呉王僚を暗殺した経緯となっている。
- ^ 『春秋左氏伝』では、紀元前512年に徐と鍾吾の君主は闔閭によって両公子の引き渡しを求められたため、驚愕した両公子は楚に亡命して養を与えられたと記されている。
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