楚との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 06:41 UTC 版)
紀元前525年、僚は呉の勢力を拡大するために、公子光(闔閭)を派遣して、楚を攻めてこれを撃ち破った。同時に人材の招聘も熱心で、楚の平王と費無忌によって父の伍奢と兄の伍尚を殺されて逃亡してきた伍子胥を迎え入れたのも僚の時代である。紀元前523年、紀元前537年当時余昧の治世に楚の霊王によって捕虜され抑留生活をした弟の蹶由が許されて後に帰国した。 紀元前519年のあるとき、呉楚国境の村で小さな争いから国の運命をかけた戦争へと発展する事件が起きた。その村では養蚕(ようさん)が盛んであったため、蚕の餌となる桑の葉を大量に必要としていた。そのため、辺りには桑の木がたくさん生えていたが、呉の村の子供と楚の村の子供がこの桑の葉を争って喧嘩を始めた。それが子供の親同士の喧嘩に発展し、呉の村の親が負けて家を焼かれた。これに村を統治している郡主は警備兵を出して村を攻め立てた。この報を受けた平王は怒り、国軍を出して村を全滅させた。呉の村が滅ぼされたのを聞いた僚は激怒して国境の居巣と鍾離を攻め落とした。さらに州来まで進撃したため、楚も武将の蔿越を派遣してこれを迎え撃った。だが、公子光が「楚の属国はいずれも小国で楚をおそれて従っているだけです。「戦は情けよりも武で、無勢でも勝てる」と聞きます。まずは属国の胡と沈は君主が年若く、陳の大夫の夏齧は年老いて頑固で国政は停滞し、また頓と許と蔡は楚の振る舞いに不満を持っております。同時に楚も統率力がある令尹が亡くなったため、混乱しております。まずは軍を手分けして、胡と沈と陳の軍勢に突入すれば、楚はますます混乱に陥り、他の属国の軍勢も崩れるでしょう。まず先鋒隊は隙を多くし、敵をおびき寄せて、後詰の本隊で撃ち破ることをお勧めします」と進言した。僚はこの進言を採り上げて、秋7月に鶏父で呉王僚自らが囚人3千人を胡と沈と陳の軍勢に攻撃させ、右軍は公子光、左軍は公子掩余が指揮し、胡と沈の若い君主を捕虜し、陳の大夫の夏齧も捕らえた。こうして呉は勢いに乗じて楚を撃破した。 紀元前516年に楚では平王が死去し、幼い末子である昭王が即位した。これを聞いた僚は紀元前515年に公子掩余と公子燭庸に国軍を預けて国境にある六を攻めさせたが、楚軍の反撃を受けて孤立した。また、季札を晋などに派遣し、中原諸国の動向を探らせた。
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