楚を救う
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/26 06:08 UTC 版)
伍子胥の復讐は、平王の後を継いだ昭王にも向けられ、その行方を捜していた。その間に包胥は秦に援軍を頼むべく哀公の宮殿に奔った。 昭王の母伯嬴は哀公の娘という間柄にも関わらず、哀公は援軍を断る。これに対し、包胥は大いに嘆き、七日七晩、何も食べず、飲まずに泣き続けた。 その様子に心を打たれた哀公は、「楚は無道だがこのような忠臣がいるのであれば滅ぼすべきでない」として、戦車五百を投入した。翌紀元前505年、秦の援軍は呉を破り、呉の内紛もあって、ついに楚は呉を退ける事に成功した。 楚を守った包胥の功績に対して、昭王は封邑五千戸の大封を与えようとしたが、包胥は楚に先祖の墳墓があったので、それを守ったにすぎないとして辞退した。
※この「楚を救う」の解説は、「申包胥」の解説の一部です。
「楚を救う」を含む「申包胥」の記事については、「申包胥」の概要を参照ください。
- 楚を救うのページへのリンク