楚凋落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:33 UTC 版)
昭襄王は年少で即位したため、母である宣太后が摂政し、宣太后の弟であった魏冄と華陽君(羋戎)の2人が実権を握るようになった。 紀元前305年、先の後継者争いに敗れた庶長の公子壮は兄弟の公子雍ら反昭襄王勢力を結集し、昭襄王と魏冄に対して反乱を起こすが、鎮圧される事件が起こった(庶長壮の反乱、季君の乱とも言う)。 この乱はすぐに鎮圧され、昭襄王の兄弟で従わない者は全て滅ぼされ、先王の武王の母である恵文后も処刑され、武王の正室の武王后は故国の魏に追放された。この乱をきっかけに魏冄の権力はますます強まっていった。また、紀元前304年、冠礼(成人の礼)を行った。 同年、秦の影響を恐れた楚の懐王は秦に盟約を求めてきた。昭襄王は黄棘の地で盟約し、その際に楚に上庸の地を与えた。 紀元前303年、昭襄王は魏を討ち、魏の蒲阪・晋陽・封陵の地を取った。しかし翌紀元前302年に魏の襄王が秦に来朝したため、蒲阪の地を還した。 紀元前301年、蜀侯であった公子惲(恵文王の子)が背いた。公子惲が秦に進献したものに、公子惲の夫人が毒を入れたため、秦と険悪になったためだった。昭襄王は将軍司馬錯に命じて蜀を平定させた。翌紀元前300年に公子惲の子の公孫綰を蜀に封じて蜀侯とし、蜀の地を安定させた。その後、紀元前298年に公子惲の無実が証明された。昭襄王は大きく後悔し、使者を派遣して改めて埋葬した。 紀元前301年、楚との仲が険悪になり、庶長の奐(姓は不明)に命じて楚を討った。翌紀元前300年にも再び楚を討ち楚の新城の地を取り、その後、紀元前299年には華陽君羋戎(宣太后・魏冄の弟)に命じて楚を討ち、新市の地を取った。 また、紀元前297年、楚の懐王が秦に入朝したが、昭襄王は懐王を信じず、秦に拘留した。翌紀元前296年に懐王は趙に逃げたが、趙が受け入れなかったため再び捕らえられ最後は秦で死んだ。 このように超大国であった楚の力は凋落し、力の差は決定的となった。
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