楚人冠落馬記念碑とは? わかりやすく解説

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楚人冠落馬記念碑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:43 UTC 版)

八幡平」の記事における「楚人冠落馬記念碑」の解説

八幡平全国知られるようになったのは、杉村楚人冠働き大きい。杉村楚人冠は、1934年昭和9年7月12日湯瀬温泉本社から石井光次郎営業局長木村通信部とともに東北三県朝日会(販売店会議)に出席した後、13日人冠は八幡平登山向かった一行車で坂比平まで行き、そこから八頭の馬に分乗してトロコ温泉着いた昼食をすませ、蒸の湯を目ざそうとした。石井木村両氏ここから下山し十和田湖まわって帰京予定だった。いったん彼らと別れ交わして先発した人冠は、ほどなく木村部長の声に呼び止められた。思い直し二人登山することにしたという。心強さおぼえた人冠は、思わず「バンザイ」と叫び、馬をおりようとしたが、その時馬が動き右足ゴルフ靴のイボがあぶみに深くはまって宙に吊り下げられたかっこになった右手をのばし、やっと足をはずしたところで、どしんと落ちた。そこはさいわい、深い草の上だった。本人はさして痛み感じなかったらしいが、うしろにいた馬子が「ボキッ」とにぶい音をきき、洋服から骨が突き出たのを目撃している。それでも本人は、はじめ骨折には半信半疑だったようだ石井光次郎柔道三段で、若いころ神戸接骨医の家に下宿したこともあって、応急乎当は手なれたものだった金剛杖副木に、馬子の豆しぽりの手拭で腕をしばり、戸板の上の人となって下山する永田集落に、8代続いたセガリ(民間接骨師)がいて、7代目老人名人といわれて健在だった。その老人治療受けてその夜谷内阿部村長の家へ一泊翌日から一週間再び湯瀬ホテルの客となった。腕が不自由ただけで、口もハラ丈夫だから、押しかける見舞い客を相手に、時節はずれのきりたんぽ振舞うやら、馬食会と称して馬肉はおろか土地の人もめったに食わない馬の肝を五分厚にきって塩焼きにした料理食べるやら、八幡平での奇禍をかえって楽しい温泉遊山にした。 人冠のこの文章アサヒグラフ9月5日号に出て八幡平急に全国知られるようになった。その翌年、関直右衛門阿部藤助らが提唱し、トロコ温泉落馬の地に「楚人冠落馬記念碑」を建てる動きになった除幕式は1周年のあとの8月ある日人冠を迎えて行なわれた。そして、この時に念願八幡平登山もかない、3日行程蒸ノ湯温泉から頂上をきわめ後生掛温泉から焼山越えをし、さらに玉川温泉まで踏破した帰京後ただちに「八幡平再挙」の一文アサヒグラフ登場した蒸ノ湯オンドル温泉浴がよほど気にいったものらしく「天下の珍湯」として紹介されている。記念碑は、落馬地点から数歩とへだてない場所に建てられた。高さ180cm、幅48cmの地元産の自然石で、トロコ温泉のすこし手前にあったが、バイパスがここを起点つくられるため、記念碑土台新しく石で畳んで移転させられ別の場所にある。(北緯4000分49.7秒 東経140度48分23.3秒 / 北緯40.013806度 東経140.806472度 / 40.013806; 140.806472)

※この「楚人冠落馬記念碑」の解説は、「八幡平」の解説の一部です。
「楚人冠落馬記念碑」を含む「八幡平」の記事については、「八幡平」の概要を参照ください。

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