楚人冠落馬記念碑
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八幡平が全国に知られるようになったのは、杉村楚人冠の働きが大きい。杉村楚人冠は、1934年(昭和9年)7月12日、湯瀬温泉で本社から石井光次郎営業局長、木村通信部長とともに東北三県朝日会(販売店主会議)に出席した後、13日楚人冠は八幡平登山に向かった。一行は車で坂比平まで行き、そこから八頭の馬に分乗してトロコ温泉に着いた。昼食をすませ、蒸の湯を目ざそうとした。石井、木村の両氏はここから下山し十和田湖をまわって帰京の予定だった。いったん彼らと別れを交わして先発した楚人冠は、ほどなく木村部長の声に呼び止められた。思い直し二人も登山することにしたという。心強さをおぼえた楚人冠は、思わず「バンザイ」と叫び、馬をおりようとしたが、その時馬が動き、右足のゴルフ靴のイボがあぶみに深くはまって宙に吊り下げられたかっこうになった。右手をのばし、やっと足をはずしたところで、どしんと落ちた。そこはさいわい、深い草の上だった。本人はさして痛みを感じなかったらしいが、うしろにいた馬子が「ボキッ」とにぶい音をきき、洋服から骨が突き出たのを目撃している。それでも本人は、はじめ骨折には半信半疑だったようだ。石井光次郎は柔道三段で、若いころ神戸で接骨医の家に下宿したこともあって、応急乎当は手なれたものだった。金剛杖を副木に、馬子の豆しぽりの手拭で腕をしばり、戸板の上の人となって下山する。 永田の集落に、8代も続いたセガリ(民間の接骨師)がいて、7代目の老人が名人といわれて健在だった。その老人の治療を受けて、その夜は谷内の阿部村長の家へ一泊、翌日から一週間再び湯瀬ホテルの客となった。腕が不自由ただけで、口もハラも丈夫だから、押しかける見舞い客を相手に、時節はずれのきりたんぽを振舞うやら、馬食会と称して、馬肉はおろか土地の人もめったに食わない馬の肝を五分厚にきって塩焼きにした料理を食べるやら、八幡平での奇禍をかえって楽しい温泉遊山にした。 楚人冠のこの文章がアサヒグラフ9月5日号に出て八幡平が急に全国に知られるようになった。その翌年、関直右衛門や阿部藤助らが提唱し、トロコ温泉の落馬の地に「楚人冠落馬記念碑」を建てる動きになった。除幕式は1周年のあとの8月のある日、楚人冠を迎えて行なわれた。そして、この時に念願の八幡平登山もかない、3日の行程で蒸ノ湯温泉から頂上をきわめ後生掛温泉から焼山越えをし、さらに玉川温泉まで踏破した。帰京後ただちに「八幡平再挙」の一文がアサヒグラフに登場した。蒸ノ湯のオンドル式温泉浴がよほど気にいったものらしく「天下の珍湯」として紹介されている。記念碑は、落馬地点から数歩とへだてない場所に建てられた。高さ180cm、幅48cmの地元産の自然石で、トロコ温泉のすこし手前にあったが、バイパスがここを起点につくられるため、記念碑は土台を新しく石で畳んで移転させられ別の場所にある。(北緯40度00分49.7秒 東経140度48分23.3秒 / 北緯40.013806度 東経140.806472度 / 40.013806; 140.806472)
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