楚から呉へとは? わかりやすく解説

楚から呉へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 19:49 UTC 版)

伍子胥」の記事における「楚から呉へ」の解説

の乾渓(現在の安徽省亳州市利辛県)の人。直言をもって荘王から信頼され伍挙の孫で、代々重臣担った家柄であった伍子胥の父の伍奢平王の子太子建(中国語版)の太傅侍従長教育係)で、直言清廉知られていた。伍子胥は九尺(約2m)を超える身長と、盛んな意気持っていた。 紀元前527年太子建に秦から嫁を貰うことになり、少傅(副侍従長)の費無忌嫁いでくる伯嬴を秦まで迎え行った。しかしその美しさ見て平王取り入ろう考え伯嬴平王側室薦めて太子には別の女性与えさせた。これにより費無忌太子付きから平王側近取立てられたが、恨みを持つ太子このまま即位しては自らが危ないため、盛んに平王中傷吹き込んだ。 これにより平王太子建との仲が悪くなり、紀元前522年に建が太子廃されることになると、伍奢その子の伍尚(中国語版)(伍子胥の兄)と伍子胥その影響力を恐れられ平王は殺すことにした。平王伍奢を捕え、「都から離れているお前の息子たち呼べそうすれば助けてやる」と言ったが、「伍尚は心優しいですから殺されるわかっていても来るでしょうが、伍子胥違います苦難耐える意気持っております。来るわけがありません」と断られた。次いで平王は伍尚と伍子胥へ「お前たち兄弟都に来たら父を助ける」と使者送った平王無道ぶりを知っていた伍子胥自分たちを全員殺すための罠と見破り、伍尚へ逃げようと誘うが、伍尚は「そうだろうが、父を見捨てられない。私は楽な道を選ぶ」と命に従い伍子胥使者弓矢脅して逃れた。なお、伍奢と伍尚は処刑されることになったが、伍奢伍子胥逃亡したのを知ると「君臣は兵の難に苦しむことになるだろう」と言い残した伍子胥復讐誓い太子と共に鄭に脱出する。その途上親友申包胥会った際、伍子胥は「必ず滅ぼしてやる」と言い申包胥は「ならば、私は臣として守ろうと言った。鄭で太子建は匿われたのにも関わらず、晋に唆されて鄭に反逆しようとしたため、逆に殺される。 だが、伍子胥太子の子の熊勝(中国語版と共に今度は呉に逃亡したこの道中は過酷なもので、物乞いをして凌いだことも、病で死線彷徨ったこともあったという。また、と呉との間にある長江辺り追手追われている際、たまたま居た漁師隠れるように促され、更に長江渡して貰った。その礼として持っていた百金はする剣を渡そうとしたが、漁師断った伍子胥が再び勧めると、「伍子胥という人を捕らえた者には、爵位5万石を与えると聞く。百金など要らないよ」と去っていったという。

※この「楚から呉へ」の解説は、「伍子胥」の解説の一部です。
「楚から呉へ」を含む「伍子胥」の記事については、「伍子胥」の概要を参照ください。

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