覇者を目指す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 07:35 UTC 版)
その後、夫差は伸張した国力を背景に北の黄河流域へと進出して、覇者になることを夢見た。だが伍子胥は越の復讐を恐れて北へ進出することを諌めた。このことで夫差は伍子胥に辟易し、伍子胥は自分が呉を支えているという自負もあり、意見の衝突で主従関係が上手くいかなくなった。ついに紀元前484年には伯嚭の讒言で伍子胥に死を賜ることとし、夫差に授けられた剣で伍子胥は自決した。この裏には范蠡の離間の計があったとも言われる。 紀元前485年、夫差は軍を率いて斉を討ち、会盟を開いて呉が諸侯の盟主であると認めさせようとした。だが、元からの華北の盟主的存在であった晋がこれに反対した。 紀元前482年、晋と呉での主導権争いが起こる。その時、呉本国が越に攻められ、留守を委ねたその息子である太子友と同族の公孫弥庸と将軍の寿於姚らが越の捕虜となり、ともにまとめて処刑されたという衝撃的な報告を受ける(『春秋左氏伝』)。 この報に夫差は驚き狼狽し、このことが諸侯に洩れれば恥を曝すことになり主導権を取れなくなると考え、口止めをした。だが、ある者がこのことを漏らしたために、激怒した夫差はその容疑者を調査し、結局7人の容疑者が摘発されこれを処刑した。 晋との盟主の座を争ったが、晋の大夫の趙鞅が武力に物をいわせて恫喝したので、止むなく夫差は諦めた。その帰途で伯嚭の進言で意図的にゆっくりと帰国し、途中で宋を攻めたりした。越も呉を一息に滅ぼすほどの力はなく、いったんは和睦した。
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