イタリアが北アフリカに戦線を開いて惨敗とは? わかりやすく解説

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イタリアが北アフリカに戦線を開いて惨敗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)

エルヴィン・ロンメル」の記事における「イタリアが北アフリカに戦線を開いて惨敗」の解説

イタリア19世紀末から地中海覇者目指していたが、その要所となる島や町、アフリカ領土などはすべて英仏奪われ過去があった。イタリア統領ベニート・ムッソリーニイギリス本土防衛手いっぱい今こそエジプト王国名目上独立国だったが、事実上イギリスの軍事支配下にあった)をイギリスから奪うチャンス見た1940年9月12日イタリア領リビアキレナイカ地方からロドルフォ・グラツィアーニ元帥率いイタリア軍エジプト侵攻したヒトラードイツ軍一個機甲師団応援に送ると申し出たが、ムッソリーニはこれを拒否したムッソリーニは「ドイツには頼らない。これはドイツのための戦いではない。ドイツ肩を並べイタリアのための戦いだ」と豪語した。さらにムッソリーニ軍部反対押し切りドイツにも独断10月28日アルバニア1939年イタリア占領しイタリア王アルバニア王に即位して同君連合結んでいた)からギリシャ侵攻開始した。しかし侵攻動員されアルバニア駐留軍では兵力不足していることから本国召集して急編成された部隊錬度低く、また険しい山地帯の多いギリシャ地形考慮した準備十分になされていないなど、侵攻計画杜撰なものであり、ゲリラ戦法を採るギリシャ軍前に進軍遅々として進まなかった。さらに、イタリア軍部隊兵力不足から編成したアルバニア人部隊の質は劣悪であり、侵攻部隊不足する兵力割いてアルバニア軍監督不良部隊武装解除にまで当たらなければならず、侵攻頓挫することになる。こうして侵攻から半月後の11月15日にはギリシャ軍が全戦線攻勢転じ12月4日には逆にギリシャ軍アルバニア領へ侵攻開始したムッソリーニは、セバスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ将軍罷免し、軍の増派決定するが、その後数ヶ月渡って泥沼山岳戦継続する結果招きその間に本来得られ増援戦力得られなかったエジプト侵攻軍は壊滅することになる。 エジプト英軍は、イタリアのギリシャ侵攻までは守勢立っていたが、ギリシャ増援送ってイタリア軍ギリシャ戦に釘付けにするとともに12月9日には「コンパス作戦」を発動し大英帝国植民地から集めた部隊を含む3個師団(9万人でもってイタリア軍3個軍団25万人)を壊滅に近い状態に追いやった。この結果イタリアであったリビアにまで英軍侵攻を許すことになり、ついにはキレナイカ地方全域英軍占領されてしまった。こうしてムッソリーニは、同盟国ドイツに対して北アフリカおよびギリシャにおける支援要請することとなる。

※この「イタリアが北アフリカに戦線を開いて惨敗」の解説は、「エルヴィン・ロンメル」の解説の一部です。
「イタリアが北アフリカに戦線を開いて惨敗」を含む「エルヴィン・ロンメル」の記事については、「エルヴィン・ロンメル」の概要を参照ください。

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