イタリアからのアプローチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 04:25 UTC 版)
「オットー・フォン・ハプスブルク」の記事における「イタリアからのアプローチ」の解説
イタリア王国のベニート・ムッソリーニ首相は、母のツィタとオットーに対して、ハプスブルク家の再興は自分たちの共通の目標になりうると説得を試みた。1932年にイタリアの新聞は、中欧の支配者としてはヒトラーよりもハプスブルク家のほうが良いという意見を掲載し、間接的にハプスブルク家の王政復古を後押しした。ムッソリーニはツィタをローマに招き、イタリアの王位継承権のある王女がオットーと結婚するのを見たいと彼女に話した。ムッソリーニの狙いは、ハプスブルク家とイタリア王家を合体させることによって、中南欧を貫いてイタリアに王朝の正統性を付与することであった。このようなオットーの縁談についてのニュースは、1930年代初頭のヨーロッパの新聞では誤報も含めて定期的に流された。とりわけ、当時イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の娘のうち最も若かったマリア王女との婚約の噂はマスコミの格好の材料となった。 1935年6月16日、オットーはルーヴェン・カトリック大学の全課程を修了し、政治学と社会学の博士号を得て大学を卒業した。
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