越中を掌握するまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 16:09 UTC 版)
神保慶宗の子とされる。仮名は不明。神保氏嫡流が称する官途である宗右衛門尉を継承していることから、その後継者を自認していたことは確かである。慶宗には小法師という嫡子がいたことから、これが後の長職である可能性がある。父の慶宗が越中守護の畠山尚慶(尚順)より偏諱を賜ったのに倣い、長職も同じく、守護の畠山稙長より「長」の一字を受けた可能性がある。 また、江戸時代の史書『越登賀三州史』において富山城を築城した水越勝重が「後に神保越中守長職と称す」とあり同一人物と考えられていたが、これは誤伝で勝重は長職の家臣であることがわかっている。また、長職が越中守を称した事実はない(越中守を称したのは子の神保長住)。『富山之記』では、長職に相当する人物が受領名越前守を称しているが、一次史料からは確認出来ていない。 永正17年12月22日(1521年1月30日)、父の慶宗が畠山尚順と越後守護代・長尾為景の連合軍に敗れて自刃した。 享禄4年(1531年)、加賀国における享禄の錯乱に神保氏は守護方連合軍の一員として出兵したが、神保勢は加賀国太田の戦いで悉く敗北し落命したという。この時の神保氏当主の名前は不明であり、神保長職の名が確実な史料に現れるのは天文年間になってからである。 長職は神保家の再興に努め、天文12年(1543年)頃、神通川を越えて新川郡に東進して富山城を築き、椎名長常と国人衆を巻き込み越中を二分した越中大乱と呼ばれる大戦を引き起こした。 長職は更に南進して城生城主斎藤氏を一年余に渡って包囲するなど猛威を奮い、天文13年(1544年)、能登畠山氏の仲裁により大乱は集結したものの、常願寺川以西を併呑し、神保家を越中最大の勢力に築き上げた。
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