神保氏
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神保氏(じんぼうし・じんぼし)は、本姓は惟宗朝臣で、上野国多胡郡辛科郷神保邑が名字発祥の地という。家紋は「堅二引両」。
- ^ a b 太田 1934, p. 2906.
- ^ a b c 太田 1934, p. 2905.
- ^ 太田 1934, pp. 2905–2906.
- ^ 太田 1934, pp. 2905, 2907.
- ^ a b 富山市史編さん委員会 1987, p. 472.
- ^ 高岡市史編纂委員会 1959, p. 527.
- ^ 高岡市史編纂委員会 1959, p. 528.
- ^ 『寛政重脩諸家譜 第7輯』國民圖書、1923年、156-157頁。doi:10.11501/1082721。NDLJP:1082721。
- ^ “町名由来板:神田神保町一丁目(かんだじんぼうちょういっちょうめ)”. 千代田区. 2016年5月16日閲覧。
- ^ 寛政譜 1923, pp. 167–168.
神保家
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神保修理(じんぼ しゅり) 演:斎藤工 会津藩家老・神保内蔵助の息子。 京都では公用方として藩主を補佐し、主戦派の佐川官兵衛らを鎮めてきた。 鳥羽・伏見の戦いで旧幕府側が不利と見ると、慶喜に江戸へ撤退するよう進言。しかし慶喜が江戸へ逃亡すると、敗戦を招いた張本人として批判され、容保から切腹を言い渡される。容保の命を受けた秋月から逃亡を勧められるが、これを謝絶。主君の名誉と藩の秩序を守るために切腹する。 神保雪(じんぼ ゆき) (井上雪 → 神保雪) 演:芦名星 修理の妻。会津藩士・井上丘隅の娘。 八重たちとは黒河内道場の同門。祝言を挙げてほどなく、夫は容保に従って京都に赴き、二度と会津に戻ることは無かった。 新政府軍が会津に攻め寄せる中、城下を彷徨っていたところを中野竹子に諭されて娘子隊に参加するが、戦闘中に仲間とはぐれて新政府軍の捕虜となり、土佐藩士・吉松速之助から脇差を借りて自害した。 神保内蔵助(じんぼ くらのすけ) 演:津嘉山正種 会津藩家老。 田中土佐と共に、大坂の適塾で学んでいた古川春英の帰藩を周旋した。病身のため帰国する横山主税と交代で京都詰めの家老として上洛する。 戊辰戦争開戦時には会津に戻っていたが、息子・修理を失った経緯もあって新政府には徹底抗戦を主張する。会津戦争では、田中土佐と共に城下の戦闘を指揮するが、新政府軍に追い詰められ、最期は「徳川家や幕府のためでなく、会津の為に戦えたこと」を喜びながら土佐と刺し違えて自害した。
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