神保相茂
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神保 相茂(じんぼう すけしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、旗本。神保春茂の子。通称は長三郎。官途は出羽守。大坂夏の陣で討ち死にしたが、味方である伊達政宗軍からの攻撃によるものであるとする説もある。
- ^ 桐野作人『<伊達政宗と戦国時代>野心は消えず 関ヶ原合戦 (歴史群像デジタルアーカイブス)』学研プラス、2014年9月24日。ASIN B00NWBFDSS。
- ^ 『難波戦記』は、日時、状況とも矛盾した2つの説を掲載している。1つ目は5月6日の伊達の片倉隊と真田信繁隊の激突(道明寺の戦い)の際に、真田勢に追われた神保主従が伊達の陣所に崩れかかったため、伊達の先方が、やむなく鉄砲と鎗で悉く討ち果たしたとする記述(東国勢はこれを政宗の裏切りと見て、疑心暗鬼に陥り、以後真田勢を追撃せず、双方で睨み合いが続いたという)。2つ目は、5月7日、明石全登と激戦を展開した後、政宗の陣所の脇で一息入れていた神保主従を、伊達側が味方と知りながら、味方だと連呼する神保勢の声を無視して、銃撃、殲滅したという記述である。編者は「伊達勢神保を討つことは、已に5月6日道明寺合戦の所に出でたり、長三郎ともに三十七騎死したる由、再び出づるは不審、但し両説を兼ねたるにや」と注釈を施している。
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