伊達の味方討ち説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/06 09:26 UTC 版)
一説には、相茂の死は突如後方より味方の伊達政宗隊から鉄砲の一斉射撃を受けたためといわれている。この「伊達の味方討ち」に関しては、事件当時上方に批判的な風説が流れていたらしく、島津氏の『薩藩旧記』には「伊達殿は今度味方討ち申され候こと。然りともいえども御前はよく候えども、諸大名衆笑いものにて比興との由、御取沙汰の由に候」と書き記している。 これに対して神保遺臣が水野氏と本多正純を介して伊達家に抗議したものの、伊達政宗は「神保隊が崩れかかってきたので、共崩れを避けるために撃った。伊達の軍法には敵味方の区別はない」と開き直りとも取れる弁明をした(『大坂夏陣推察記』)。わずか7千石の外様である神保氏と60万石の大名・伊達氏とでは争いにならず、結局伊達氏にはお咎めなしであった。 事件の詳細は不明で、伊達氏の弁明の他、誤射説、敵との誤認説、戦闘中に後藤基次隊ごと攻撃したとするもの、功名争い説の他、また上方の講談本『難波戦記』のように、船場口で休息を入れている神保隊に、有無をいわさずに伊達側が銃撃をくわえたとする説もある。 但し、伊達家十四世伊達稙宗が制定した分国法「塵芥集」第百三十二条に戦場での味方討ちは討ち死にに準ずる旨が記されており、政宗の言動に矛盾はない。
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