あいづ‐せんそう〔あひづセンサウ〕【会津戦争】
会津戦争
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会津戦争(あいづせんそう、慶応4年/明治元年(1868年))は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府軍との間で行われた戦いである。現在の福島県会津地方が主戦場となった。
注釈
- ^ 水戸藩・諸生党は奥羽越列藩同盟側に加勢、北越戦争参加後、1868年会津戦争・篭城戦で北越戦線から会津へ戻り会津藩内の婦女子を救済、各地で会津藩兵らと共に奮戦した。福島県会津若松市一箕町の白虎隊記念館敷地内に、会津で命を落とした水戸藩士らの「諸生党鎮魂碑」がある[1]。
- ^ うち少年兵500余
- ^ 旧幕府兵・民兵など含む、諸説あり
- ^ 城内防衛
- ^ 最年少隊士の飯沼貞吉のみは蘇生し、昭和6年(1931年)まで生存。
- ^ という説はあるが、信頼できる一次史料で確認できるものはない
- ^ 条約書面上は「99年間の租借」
- ^ 敵ながら会津藩の態度や戦いぶりに、ある種の共感に似た感情を抱いていた前原は、木戸孝允に会津藩への厳罰を避ける旨の手紙を書いている[9]。
出典
- ^ 『茨城新聞』2014年(平成26年)5月2日金曜日、17頁、福島会津若松、殉難志士の冥福祈る
- ^ 大山柏『戊辰戦争史』
- ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『防長回天史』第6篇上 246頁
- ^ 『板垣精神』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂
- ^ 『板垣退助君傳記』宇田朋猪著
- ^ 『無形板垣退助』平尾道雄著
- ^ 牧野登「会津人が書けなかった会津戦争」より
- ^ 『英国公使館員の維新戦争見聞記』 (中須賀哲朗訳 1974年)
- ^ 『幕末悲劇の会津藩主 松平容保』中経出版、2013年
- ^ 中須賀哲朗・訳「英国公使館員の維新戦争見聞記」より
- ^ a b c d e f g 野村昌二,渡辺豪「“半年間、遺体を野ざらし”はなかった? 薩長の「埋葬禁止令」を覆す新史料」AERA dot,2018/03/08 07:00、AERA2018年3月12日号
- ^ 野口信一『会津戊辰戦死者埋葬の虚と実』(歴史春秋社,2017)
- ^ “会津藩士埋葬の史料発見 「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し”. 福島民報. 2017年9月25日閲覧。
- ^ 『野辺地町史 通説編第二巻』 48頁
- ^ 『野辺地町史 通説編第二巻』 53頁
- ^ “ある明治人の記録:会津人柴五郞の遺書(柴 五郎著)”. 駒澤大学. 2017年7月15日閲覧。
- ^ a b c 「会津VS長州だけじゃない日本の郷土紛争 彦根VS薩摩の争点」『週刊ポスト』2013年8月30日号、NEWSポストセブン、2015年7月11日閲覧。
- ^ 池田拓哉 (2011年4月2日). “2011年4月2日 会津若松へ長州・萩から義援金 旧敵でも「ありがたい」”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社) 2016年3月26日閲覧。
- ^ “萩市 平成23年 萩市の主な出来事”. 2012年11月25日閲覧。
- ^ “福島民報 2012年11月25日 山口の萩市長が観光支援で若松訪問”. 2012年11月25日閲覧。
- ^ “『八重の桜』描写 山口・福島県民の怒り温度差にNHKが配慮”. 週刊ポスト (小学館). (2013年3月31日) 2016年6月20日閲覧。
- ^ “『八重の桜』の長州藩描写 山口県民は受け入れ難いの意見多し”. 週刊ポスト (講談社). (2013年3月31日) 2016年7月5日閲覧。
- ^ “新婚さんいらっしゃい 【婿養子は見た!妻家族の怪奇風習&37年越しの愛の奇跡!】 の番組概要ページ”. gooテレビ番組(関東版). 2019年2月17日閲覧。
- ^ “【甲子園】さあ決勝、SNSで“令和の戊辰戦争”話題沸騰の理由 初Vかけ仙台育英VS下関国際”. 日刊スポーツ (2022年8月22日). 2022年8月23日閲覧。
- ^ “甲子園、仙台育英が悲願の初優勝…高校野球を “追放” された渡部建は何を思うのか”. Smart FLASH (2022年8月22日). 2022年8月23日閲覧。
- ^ “【夏の甲子園】仙台育英が“東北勢悲願の初V” 下関国際に勝利 斎藤蓉が好投&5番岩崎生弥が満塁ホームラン”. 日テレNEWS (2022年8月23日). 2022年8月23日閲覧。
会津戦争
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8月21日、会津藩は各国境へ主力を送り出し、守備に就かせていたが、石筵口である母成峠の戦いにて東軍が敗れ、西軍は破竹の勢いで進行した。 8月22日、容保、滝沢本陣にて宿陣する。戸ノ口原の守備を固めるため、白虎隊(士中二番隊)もここより出陣。8月23日、戸ノ口原の戦いにて東軍が崩れ、西軍が若松城下に侵入、城下の戦いと籠城が始まる。これより1か月余りの長い籠城戦の中で、会津藩の家臣たちは婦女子や子供に至るまで戦い、または自決をし、会津の武士道に殉ずる道を選び、多くの悲劇を生んだ。西郷頼母の家族に代表される婦女子の自刃は140家族239名にのぼり、白虎隊の飯盛山での自刃、中野竹子ら娘子隊の戦いなどがおこり、その他多くの会津藩士が胸に辞世の句を入れるなどして戦った。対する西軍は32藩からなり、大砲100門、3万ないし4万人に上り、城を包囲し一昼夜鶴ヶ城へ砲弾を撃ち続けた。 9月22日、会津藩降伏、鶴ヶ城開城。容保は妙国寺へ移される。10月19日、容保、会津を発し江戸へ護送され、池田邸に永預けとなる。
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