会津時代
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会津藩士井深宅右衛門(禄高550石)の長男として生まれた。幼名は清佶である。代々小姓を出している家柄であった、井深は最後の会津藩主松平容保の小姓であった。慶応4年(1968年)15歳の時白虎隊年少組の斥候として会津戦争に加わる。また小姓として松平容保の側で、山川健次郎、高木盛之輔、高峰秀夫らと共に戦った。 敗戦後、会津藩士たちと共に猪苗代で謹慎生活を送る。1869年(明治2年)の年の初め、藩士は東京に護送されることになったが、井深は老幼女子に行くように命じられ、河沼郡水谷地村(現、喜多方市豊川町高堂太水谷地)に帰り、親族と共同生活をする。 明治2年4月、塩川町に藩校日新館が仮の建物で再開される。井深は舎弟の勝治と共に通学する。7月に井深は、校長中弥次衛門に、校内に寄宿していた生徒の世話係に命じられる。
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会津時代
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弘化2年(1845年)、会津藩の砲術師範(禄高は22石4人扶持)であった山本権八・佐久夫妻の子として誕生する。慶応元年(1865年)、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授を務めていた川崎尚之助と結婚。慶応4年/明治元年(1868年)に会津戦争が始まると、鉄砲を主力に戦うべきと考え、刀や薙刀で戦うとした婦女隊には参加せず、断髪・男装して家芸であった砲術をもって奉仕し、鶴ケ城籠城戦では自らもスペンサー銃と刀を持って奮戦した。優秀な射手であり、薩摩藩二番砲兵隊長だった大山厳を狙撃して戦線離脱の重傷を負わせたと言われている。敗戦後、捕虜となった夫と生き別れる。なお、かつては会津籠城戦前に離婚したとされていたが、実際に離婚手続きが取られたのは明治4年(1871年)旧暦12月のことである。 明治3年(1870年)、夫・尚之助に教えを受けた米沢藩士・内藤新一郎の世話で、1年ほどを米沢で過す。
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