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内藤新一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/31 12:59 UTC 版)

内藤 新一郎
生誕 1857年5月4日
江戸幕府 出羽国最上郡新庄城
(現・山形県新庄市
死没 (1935-12-06) 1935年12月6日(78歳没)
日本 京都府京都市左京区下鴨松ノ木町
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1877年 - 1914年
最終階級 陸軍中将
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内藤 新一郎(ないとう しんいちろう、1857年5月4日安政4年4月11日[1][2]〉- 1935年昭和10年〉12月6日[2][3])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級[1][4]。孫は映画美術監督の内藤昭[5]

経歴

出羽国最上郡新庄城下三本橋[3]山形県最上郡新庄町沼田三本橋を経て現新庄市沼田町)で新庄藩士内藤秀升の三男として生れ、1879年(明治12年)5月に家督を相続した[1]

1875年(明治8年)兵学寮(陸軍士官学校前身)に入り、1877年(明治10年)4月、陸軍歩兵少尉に任官[1][4]西南戦争歩兵第9連隊小隊長として出征[3]日清戦争では第3師団高級副官として従軍[2]

1902年(明治35年)5月、歩兵大佐に進み歩兵第38連隊長に就任[4]日露戦争に出征し南山の戦いから奉天会戦まで転戦[2]1905年(明治38年)3月、陸軍少将に昇進し歩兵第26旅団長となり、樺太占領に従事した[2]

歩兵第14旅団長、近衛歩兵第2旅団長を経て、1912年(明治45年)2月、陸軍中将に進み下関要塞司令官に就任[2][4]。1912年(大正元年)12月に待命となり、1914年(大正3年)1月、予備役に編入された[2][4]

その後、京都市左京区下鴨松ノ木町に居住し、1935年12月、持病のため死去した[3]

脚注

  1. ^ a b c d 『人事興信録 第4版』な7頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』503頁。
  3. ^ a b c d 『時代文化記録集成』第28号、153頁。
  4. ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』40-41頁。
  5. ^ 『映画美術の情念』リトル・モア、1992年、292-293頁。 

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』1915年。
  • 『時代文化記録集成』第28号、時代文化研究会、1936年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。



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