市川・船橋戦争
市川・船橋戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 13:56 UTC 版)
慶応4年(1868年)素六27歳の時、3月に撤兵頭並、4月に昇進し撤兵頭に命じられた。すでに官軍との戦いを選ぶことは時期を失ったと思っていた素六が、戦うべしと意気まいている部下の前で官軍に従うと言えば、不忠不義と罵られ殺される恐れがあった。そのため、不本意ながら「戦」の字を大書して席を立った。素六はどちらの決定になったとしても死を覚悟し、菩提寺へ参り切腹するつもりであった。切腹前にと数学の師である近藤真琴を訪ねたが不在だったため「慷慨死に就くは易く、従容道に従うは難し」と書き記し菩提寺へと向かった。素六の置き手紙を見た近藤が駆けつけて諭したため、切腹を思いとどまる。素六は江戸から脱走した撤兵隊の部下を鎮めるため木更津へと向かった。木更津では、すでに意気盛んな兵士たちが徳川義軍府を立てていたが、作戦・防戦計画は何一つなかったため、素六は黙って見過ごすことができず、陣地の構築や、作戦行動の指揮をとることになった。官軍側参謀長が素六に降伏を進めてきた際は、部下たちの気持ちを考慮して降伏の申し出を断腸の思いで断ったとされている。市川・船橋戦争では、八幡の戦いから海神の戦闘の中で素六も弾丸で撃たれ、江原隊は壊滅した。戦いの後、従者2人と船橋の山野村に残り、鶴岡伊右衛門に匿われながら1ヶ月ほど山野村を転々とした。1ヶ月間になんとか歩けるようになり、江戸に連絡し、船橋から漁船を使い江戸に向かった。
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