旧幕府軍の江戸脱出とは? わかりやすく解説

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旧幕府軍の江戸脱出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 10:08 UTC 版)

市川・船橋戦争」の記事における「旧幕府軍の江戸脱出」の解説

4月11日5月3日)、江戸城新政府への明け渡し前将軍徳川慶喜水戸藩預かり蟄居決定すると、これに不満を抱く旧幕府将士中には江戸脱出する者が相次いだ榎本武揚海軍率いて館山入り大鳥圭介陸軍率いて市川入り福田道直は新制歩兵隊である撒兵隊を率いて木更津入った江戸城開城翌日である12日撒兵隊2,000率いて木更津着いた福田は、大鳥市川国府台にいるとの報を受けて市川増援のためにまず江原鋳三郎第1大隊に兵300与えて中山法華経寺派遣し続いて第2大隊第3大隊の兵600船橋大神宮派遣してここを撒兵隊の本営とした。ところが、現地着いてみると幕府軍は全く存在していなかったのである。これは11日新撰組副長であった土方歳三大鳥合流し流山局長近藤勇新政府軍捕らえられた事を知った大鳥市川滞在危惧抱き日光山会津藩連携して新政府軍抵抗する作戦変更して撒兵隊が木更津入った12日には既に全軍市川から離れて北に向かっていたのである大鳥が北に逃れた聞いていた新政府軍にとっても撒兵隊の出現予想外であり、直ち千住宿守備していた岡山藩撒兵隊の武装解除命じた4月25日から八幡武装解除交渉が行われ、翌日には3日以内武装解除撒兵先鋒江原命じた江原大鳥隊との連携可能性無くなった以上、単独での江戸奪還は困難と考えて徳川家家名再興許されるのならば武装解除やむなしとしてこれを受け入れた。ところが、陣中戻った江原がこの意向伝えたところ、隊内の強硬派突き上げ受けて武装解除議論はまとまらなかった。 これに対して新政府軍市川国府台近く弘法寺本陣置いて行徳福岡藩100八幡岡山藩100鎌ケ谷佐土原藩200本陣のある市川には安濃津藩400一部徳島藩援軍含む)が配備された。4藩の隊長4月28日軍議開き閏4月1日までに武装解除応じなければ攻撃開始する意向固めた。翌閏4月2日、4藩は最後通告発したものの、撒兵隊はこれを拒否する江原新政府軍総攻撃が近いと考えて先手を打つことにした。

※この「旧幕府軍の江戸脱出」の解説は、「市川・船橋戦争」の解説の一部です。
「旧幕府軍の江戸脱出」を含む「市川・船橋戦争」の記事については、「市川・船橋戦争」の概要を参照ください。

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