旧幕府側で高まる主戦論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)
「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「旧幕府側で高まる主戦論」の解説
旧幕府軍(王政復古の大号令で幕府の廃止が宣言されているため)の拠点となっていた大坂城では、会津藩士と桑名藩士だけでなく幕閣にも主戦論が高まったため、12月中旬に旧幕府軍は京坂の要地に軍隊を展開した。西国街道の西宮札の辻に小浜藩兵500人、京街道の守口に伊勢亀山藩兵200余人、奈良街道の河堀口に姫路藩兵200余人、紀州街道の住吉口に紀州藩兵若干名を配した。また、枚方と淀には注進に備えて騎兵を置き、真田山と天王寺に陣営を築き、大坂、大坂城外14カ所の柵門、十三川の渡口、守口、枚方、山崎、八幡、淀を幕府陸軍で固め、伏見には幕府陸軍と新選組を配し、叛旗を翻す姿勢を取った。 12月23日と24日にかけて朝廷において、[要出典]大坂城に移り音信不通となった[要出典]慶喜について会議が行われた[要出典]。参与の大久保利通は慶喜の謀叛と主張し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとした。これに対し春嶽は、旧幕府内部の過激勢力が慶喜の去就を妨害をしていると考え、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府首脳もおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。再度春嶽と慶勝が使者に立てられ、慶喜に政府決定を通告。[要出典]慶喜は近日中に上京し、何故不審な行動をとったのか直接説明するよう命ぜられた。
※この「旧幕府側で高まる主戦論」の解説は、「鳥羽・伏見の戦い」の解説の一部です。
「旧幕府側で高まる主戦論」を含む「鳥羽・伏見の戦い」の記事については、「鳥羽・伏見の戦い」の概要を参照ください。
- 旧幕府側で高まる主戦論のページへのリンク