市川百十郎による寄付
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/20 19:53 UTC 版)
市川百十郎は1931年(昭和6年)、一時故郷である岐阜県稲葉郡大島村(現在の各務原市蘇原大島町)に戻り、村歌舞伎の村国座で公演を行なっている。この時同じ年に完成した境川放水路(現・新境川)の工事で多くの人が亡くなった事を聞き、その供養にと1931年に1,000本、1932年(昭和7年)に200本の"吉野桜"を寄附した。この吉野桜は新境川の堤防に植樹され、後に"桜の名所"として地元の人々に親しまれるようになった。 しかし太平洋戦争による物資不足のため薪や炭にする目的で、桜の木は次々と伐採されてしまう。さらに終戦後も物資不足は続き、伐採が止まらなかったため、最終的に残ったのは、境川分岐点北端の山崎橋から南300メートルほどの数十本程度であった。そこで、既存の桜の南端から那加町まで、戦後早々に新しく苗木が植えられた。しかし、これらの若い木は1960年代ごろまでは花をつけなかった。
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