磐城の戦い
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磐城の戦い(いわきのたたかい)とは、戊辰戦争時の慶応4年(1868年)6月16日から8月7日にかけて後に磐城国として分離される地域(現在の福島県浜通り)で行われた、明治新政府軍と徳川旧幕府軍との一連の戦いの総称である。新政府軍の平潟上陸から中村藩の降伏まで続いた。戦闘の結果、奥羽越列藩同盟は浜通りを喪失すると共に、盟主仙台藩においては藩境に新政府軍を迎えることになった。
- ^ 大山(1968: 500)
- ^ 大田(1980: 244)
- ^ 一老人の懐古談(大山 1968: 502)
- ^ 青木ほか(2000: 124)
- ^ 大山(1968: 502-503)
- ^ 大山(1968: 504)において、仙台藩記では「人見等裏崩れ致し敗走」と記述され、林忠崇私記には「仙兵裏崩れして、ついに敗走」と相反する記述がされていることを「面白いこと」として紹介している。
- ^ 星(2000: 189)
- ^ 大山(1968: 506)
- ^ 青木ほか(2000: 192)において「総州結城野州小山館林須坂両藩兵戦記」の陣羽織、鎖帷子、手槍の兵装を描写した記述を紹介している。
- ^ 星(2000: 190-191)
- ^ 石川(1989: 63)
- ^ 石川(1989: 62)
- ^ 大山(1968: 511)「「薩藩報」に「賊百二十一打ち取る」とあるから、仙兵が大きな死傷者を出したことは間違いない。」
- ^ 大山(1968: 511)
- ^ 星(2000: 190)
- ^ 星(2000: 191)
- ^ 大山(1968: 513)
- ^ 大山(1968: 514)
- ^ 「一団結にて仙台を討つべし」(大山 1968: 515)
- ^ 星(2000: 193)
- ^ 大山(1968: 516)
- ^ 「7月7日に5小隊を援軍に送り、何隊かは城内に入らず四ツ倉に残った。」(大山 1968: 516)
- ^ 大山(1968: 519-520)
- ^ 大山(1968: 521)
- ^ 大山(1968: 521)において、「この頃すでに態度を変ずるの準備ありしなり」との仙台戊辰史(620)の記述を紹介している。
- ^ 大山(1968: 521-522 著者私見)
- ^ 大山(1968: 520)
- ^ 青木ほか(2000: 52)
- ^ 大山(1968: 520)および星(2000: 210)
- ^ 大山(1968: 524)
- ^ 兵数については、石川(1989: 73-74)
- ^ 大山(1968: 525)
- ^ 大山(1968: 532)「遺棄せる器械、糧食、村中に狼藉たり」
- ^ 大山(1968: 526)
- ^ 大山(1968: 533)
- ^ 大田(1980: 250)
- ^ 大山(1968: 538)において、仙台藩記の「相馬すでに盟を破りて疑を西軍に通じ」との記述を、奥羽越同盟軍の信頼関係の薄らいだ証左として紹介している。
- ^ 星(2000: 239)
- ^ 大山(1968: 539)
- ^ 大山(1968: 542)
- ^ a b 大山(1968: 543)
- ^ a b 大田(1980: 251)
- ^ a b 星(2000: 240)
- ^ 「吉田屋覚日記」に列挙している分捕り品は、武器弾薬、米穀、主だった家財、金蔵、土蔵、金銭衣類、家具。他に毎日450俵の米と、味噌、薪、油、蝋燭が課せられた。農村からは人足の他、兵員2800名が徴された(星 2000: 241)。
- ^ 大田(1980: 254)
- ^ 大山(1968: 544)
- ^ 星(2005)
- ^ 青木ほか(2000:118)
- ^ 星(2000: 252)
- ^ 大田(1980: 303)
- ^ 大山(1968: 576)
- ^ 戊辰戦争によって焼失した磐城平城の跡地が切り売りされ、そこに民家が建てられた時期も、この明治政府占領下である。
- ^ 小林・山田(1970: 196)
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