平潟戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:19 UTC 版)
詳細は「磐城の戦い」および「旗巻峠の戦い」を参照 平潟戦線における列藩同盟軍の主力は仙台藩だった。6月16日から20日にかけて新政府軍・約750人が海路常陸国(茨城県)平潟港に上陸した。列藩同盟軍は上陸阻止に失敗した。 当時、榎本武揚の旧幕府艦隊は健在だったが、新政府軍の軍艦を用いた上陸作戦を傍観した。その後も順次上陸作戦は実行され、新政府軍の兵力は約1,500人となった。 6月24日、東山道先鋒総督府参謀・板垣退助(土佐藩)が率いる新政府軍の迅衝隊が白河から平潟との中間にあった棚倉城を接収した。さらに7月14日、迅衝隊は海岸に近い磐城平城を占領(平城の戦い)。16日には断金隊々長・美正貫一郎の尽力によって、三春藩が迅衝隊に進んで降伏し無血開城し、三春城は新政府軍の病院としての一翼をになった。22日に仙台追討総督・四条隆謌が増援を率いて平潟に到着、29日に二本松城を三春城から北上した新政府軍が占領した(二本松の戦い・二本松少年隊)。8月7日、相馬中村藩が新政府軍に降伏。四条隆謌と参謀・河田景与および木梨精一郎らは相馬藩兵を加えて単独で仙台方面へ侵攻、11日に藩境の駒ヶ嶺を占拠、ここで仙台藩と戦闘を繰り広げた。 白河周辺に大軍を駐屯させ南下を伺っていた列藩同盟軍は、より北の浜通り及び中通りが新政府軍の支配下に入ったことに狼狽し、会津領内を通過して国許へと退却した。また仙台藩は列藩同盟の盟主でありながら恭順派が勢いを増していて、藩領外への進軍は中止された。 新政府軍の総司令官・大村益次郎(長州藩)は、仙台藩の攻撃を優先するべきだと主張し、現地の司令官・伊地知正治(薩摩藩)と板垣退助(土佐藩)は会津藩を攻めるべきだと主張した。結果、伊地知・板垣の会津進攻策が通り、会津戦争が行われることになった。
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