棚倉の失陥と浅川の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 16:55 UTC 版)
「二本松の戦い」の記事における「棚倉の失陥と浅川の戦闘」の解説
5月1日、白河城を奪還した新政府軍は増援待ちの状態だった。旧幕府軍は白河城の再奪取のために度々攻撃をしかけてきたが、いずれも新政府軍が勝利して会津藩兵らを潰走させていた。しかし、兵力の不足から追撃を行うことはできず、戦略的にも北上できる兵力はなかった。状況が変わったのは5月27日、土佐藩からの増援がようやく到着し、続いて6月7日に薩摩藩、22日に長州藩、23日には東征大総督参謀・奥州追討白河口総督の鷲尾隆聚と阿波藩が到着し、ようやく積極的な軍事行動に移る兵力が揃う。 新政府軍の北上にあたり、一番の気がかりは東にある列藩同盟側の棚倉藩であり、これを放置すると後方で蠢動される可能性があった。そのため24日、板垣退助が800名からなる別働隊を率いて棚倉藩へ向けて出兵する。棚倉城は仙台藩と相馬中村藩が守備にあたっていたが、先立つ18日に平潟へ新政府軍が上陸していたために、対応すべく棚倉の旧幕府軍は平潟へ向けて移動して手薄となっていた。そのため、棚倉城は簡単に陥落する。白河と棚倉を抑え、北上の体勢の整った新政府軍は平潟方面軍の磐城平藩の攻略を翌月まで待ち続ける。これは磐城平藩制圧後、山道を通って三春藩を攻撃する平潟方面軍と歩調を合わせるための戦略的な判断であり、7月13日に磐城の戦いで磐城平城が落城して三春藩を二方面から攻めることが可能となった。 この時、旧幕府軍の主力は棚倉への救援には向かわなかった。旧幕府軍は新政府軍の兵力が二分される好機と見て白河城へ攻勢をかけていたからである。しかし、守りに徹する新政府軍は最新式の銃器によって計7度の襲撃全てを退け、14日に旧幕府軍は白河城攻略を断念した。 16日、仙台藩の大隊長塩森主悦は白河城への攻撃が埒が明かないと見て、棚倉の奪還に方針を変更して棚倉方面へと兵を向ける。その途上、棚倉北東にある浅川で新政府側の陣地に遭遇する。ここには北上に備えて土佐藩兵、彦根藩兵が駐屯しており、仙台藩の攻勢により一時苦境に陥るも棚倉城からの増援を得て撃退した。この敗戦と平潟に上陸した新政府軍の存在がきっかけとなり、仙台藩兵、二本松藩兵は白河城と棚倉城の攻略を断念して郡山へと撤退を始める。 なお、この戦闘中の出来事として「仙台戊辰史」では三春藩が裏切って後方から銃撃を浴びせたことを敗因に上げているが、新政府軍側の記録では寝返りの記述はなく、「仙台藩記」にも三春藩が戦闘途中で離脱したことのみが記されているため、戦闘の最中に直接的な寝返り(列藩同盟軍への攻撃)が行われたことについては不明となっている。しかし、三春藩は浅川の戦闘の数日後、板垣退助に恭順の使者を送っている。
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