棚倉藩主相続と老中就任
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文久3年(1863年)7月20日、但馬国出石藩主・仙石家のお家騒動(仙石騒動)に連座して、懲罰的に陸奥国石川郡内に移されていた知行所5000石のうち2500石を、播磨国佐用郡の旧領の一部と替地され、知行所として陸奥国内2500石および播磨国内2500石を持つこととなる。同年8月14日に勘定奉行に任命され、翌元治元年(1864年)6月24日には大目付、その5日後の29日には江戸南町奉行となる。 元治元年11月20日、本家の陸奥棚倉藩主・松平康泰が子のないまま亡くなったため、棚倉藩主を継いだ。藩主就任後の元治2年(1865年)1月11日、周防守に任官し、同月に諱を康英と改名した。同月20日には奏者番兼寺社奉行に任命され、3月8日に下野国宇都宮藩へ転封を命じられる。この後慶応元年(1865年)4月12日に老中、同月25日に外国事務取扱を命じられ、同月28日に従四位下に叙された。10月15日に宇都宮への転封が中止となって2万石を加増されたが、翌日老中を辞職した。しかし1か月後の11月20日に再び老中に再任され、以前通り外国事務取扱となった。12月15日、侍従に任官される。 翌慶応2年(1866年)4月12日、海軍事務取扱兼任を命じられ、6月19日に陸奥白河藩へ転封を命じられたが、前白河藩主・阿部正静の都合で国替が手間取ったため、そのまま10月27日に武蔵川越藩へ転封された。慶応3年(1867年)5月12日に会計総裁兼任となり、外国・海軍事務取扱は免除された。慶応4年(1868年)2月5日、老中を罷免された。同年4月14日、明治政府より謹慎を命じられ、1か月後の5月13日に謹慎を解かれた。翌明治2年(1869年)4月10日、家督を養子の康載に譲り隠居した。 その後、明治20年(1887年)12月28日に正四位、同26年(1893年)6月16日に従三位、同37年(1904年)に従二位(死去の日と同じ?)に叙される。同年7月5日に75歳で死去した。 最初の妻は幕臣3000石勘定奉行・松平(松井)備中守康正の娘。後妻は幕臣5000石西丸御小姓番頭・鍋島伊予守直正の娘直子。
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