棚倉藩主相続と老中就任とは? わかりやすく解説

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棚倉藩主相続と老中就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 13:43 UTC 版)

松平康英」の記事における「棚倉藩主相続と老中就任」の解説

文久3年1863年7月20日但馬国出石藩主・仙石家お家騒動仙石騒動)に連座して、懲罰的陸奥国石川郡内に移されていた知行所5000石のうち2500石を、播磨国佐用郡旧領一部替地され、知行所として陸奥国2500石および播磨国2500石を持つこととなる。同年8月14日勘定奉行任命され、翌元治元年1864年6月24日には大目付その5日後の29日には江戸南町奉行となる。 元治元年11月20日本家陸奥棚倉藩主・松平康泰が子のないまま亡くなったため、棚倉藩主を継いだ藩主就任後の元治2年1865年1月11日周防守に任官し同月に諱を康英と改名した同月20日には奏者番寺社奉行任命され3月8日下野国宇都宮藩転封命じられるこの後慶応元年1865年4月12日老中同月25日外国事務取扱命じられ同月28日従四位下に叙された。10月15日宇都宮への転封中止となって2万石を加増されたが、翌日老中辞職した。しかし1か月後の11月20日に再び老中再任され、以前通り外国事務取扱となった12月15日侍従任官される。 翌慶応2年1866年4月12日海軍事務取扱兼任命じられ6月19日陸奥白河藩転封命じられたが、前白河藩主・阿部正静都合国替手間取ったため、そのまま10月27日武蔵川越藩へ転封された。慶応3年1867年5月12日会計総裁兼任となり、外国海軍事務取扱免除された。慶応4年1868年2月5日老中罷免された。同年4月14日明治政府より謹慎命じられ1か月後の5月13日謹慎解かれた。翌明治2年1869年4月10日家督養子の康載に譲り隠居したその後明治20年1887年12月28日正四位、同26年1893年6月16日従三位、同37年1904年)に従二位死去の日と同じ?)に叙される。同年7月5日75歳死去した最初の妻幕臣3000勘定奉行松平松井備中康正娘。後妻幕臣5000西丸御小姓番頭鍋島伊予守直正の娘直子

※この「棚倉藩主相続と老中就任」の解説は、「松平康英」の解説の一部です。
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