房総の戊辰戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 06:38 UTC 版)
慶応4年(1868年)4月、江戸城開城を不服とした旧幕府陸軍の一部が江戸を脱出した(当時の史料で「脱走方」、いわゆる「幕府脱走兵」)。こうした「脱走兵」は房総地域に入り込み、騒然とした状況となった。このうち、福田道直ら撤兵隊は、真里谷(木更津市)を拠点として「徳川義軍府」を称し、諸藩に出兵を促し、金銭・食糧・兵器を徴発した。 閏4月、房総地域の旧幕府軍は、市川・船橋戦争、五井戦争において新政府軍に打ち破られた。ここまで、房総半島に所在する徳川譜代の中小諸藩は(幕府軍側に身を投じた請西藩主林忠崇を除いて)新政府・旧幕府の双方に対してあいまいな態度をとっていたが、これらの戦闘での新政府軍勝利以後、新政府への帰順を鮮明にしていくことになる。以後も小規模な騒乱は続くが、新政府は房総の平定を進め、おおむね9月には平穏に復したとされる。
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