房総への俳諧行脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
江戸住まいの一茶は、俳諧師として行脚することによって生計を立てていた。一茶の巡回俳諧師としての地盤は主として上総、下総、安房といった房総半島方面であった。現存する資料から見ると、一茶の房総行脚は享和3年(1803年)頃から本格化している。房総半島の行脚ルートは、水戸街道、利根川周辺の馬橋、小金、流山、守谷、布川そして佐原や銚子方面まで足を伸ばすコースと、木更津を根拠地として富津、金谷、保田、勝山、そして千倉付近まで足を伸ばす2コースがあった。江戸後期の房総半島は大消費地である江戸に近いという地の利を生かし、商品経済が浸透する中で地場産業が発展し、富農、豪商らが力をつけるようになっていた。中でも木更津や佐原のような地域の中核地は賑わいを見せており、文化に関心を持つ富農、豪商らの手によって文化も発達する。すると江戸近郊の房総には文人墨客が集まるようになっていた。一茶も俳諧を嗜む房総方面の富裕層をターゲットとして、定期的に房総方面を巡回するようになった。 一茶と房総方面の俳人との交流は、一茶が俳諧の道に進むようになった20代の頃に遡る。これは一茶が所属した葛飾派の地盤が、隅田川東岸の葛飾、そして房総方面にあったことに起因している。房総方面には一茶と長い付き合いとなる俳人たちが多かった。その上、前述のように産業が発展し、富裕層を中心として俳諧などの文化が発達した房総では、各地に連、連中、社中と呼ばれた俳諧を嗜むサークルが形成されていた。それらサークルの多くは葛飾派や葛飾派に近い系列に属していたが、他派のサークルもあった。一茶は房総各地の俳諧愛好サークルを葛飾派の枠を超えて巡回するようになった。 本所や両国近くといった江戸の下町住まいであった一茶にとって、房総は比較的近い場所にあった。短い場合では日帰り、長期では2か月程度の期間、房総方面を巡回した。当時、一茶に限らず俳諧師が地方を行脚することはよく行われていた。俳諧師として地方行脚を続ける中で一茶は、かつて東北や西国に俳諧修行の旅に出たように俳諧の腕を磨き、多くの俳人たちにその実力を認めてもらう機会となった。そして定期的な房総方面への俳諧行脚はもうひとつの大きな目的があった。それは生活のためであった。プロの俳諧師として房総各地で俳諧指導、そして俳諧に関する知識、情報を伝授する中で謝礼を貰い、それが一茶の生活の糧となっていたのである。もちろん一茶以外の地方行脚を行う俳諧師にとっても事情は同じであり、生活のための行脚の旅の最中に、いずことも知れずに亡くなる俳諧師も少なくなかった。当時独身であった一茶は生来の旅好きでもあり、歓迎してくれる知己が多かった房総は第二の故郷のような場所であった。しかし一茶にとって、いわば根無し草のような俳諧行脚に頼る生活をいつまでも続けていくことは本意ではなかった。 夕燕我には翌(あす)のあてはなき 春の夕暮れ、巣へと急ぐ燕たちを見ながら、明日どうなるかの当てがないわが身を振り返るこの句は、一茶が房総方面への俳諧行脚に勤しんでいた頃の文化4年(1807年)の作である。
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