房総方面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:19 UTC 版)
その後、新政府軍は旧幕府軍を追撃して、閏4月6日(5月27日)から翌日にかけての五井戦争でも勝利を収めた。 一方、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の総督であった大多喜藩主の松平正質は徳川慶喜から江戸城登城を禁止された後、本国に帰国して謹慎状態にあったが、閏4月11日に大多喜城を無血開城した。大多喜城は佐倉藩(後に三河吉田藩)に接収され、藩主松平正質も佐倉に幽閉されたが、藩主や家臣が新政府軍に抵抗せずに城を明け渡したことが考慮され、正質は8月19日に所領を回復、10月23日には官位も元に戻され、事実上処分を免ぜられて藩の存続が認められた。 ところが、同じ頃、木更津に逃れていた旧幕府軍の遊撃隊の誘いを受けた請西藩主・林忠崇が閏4月3日に自ら脱藩して遊撃隊に合流してしまうことになる。
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