一茶園月並の挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
当時、プロの俳諧師として収入を得る方法は、地方を行脚して稼ぐ方法と月並句会を行う方法があった。月並句会とは一種の通信教育で、毎月お題を決めて一般から投句を募り、優秀者には景品を授与し、投句者には入選作品を印刷して配布し、投句を添削して返却するという方式で行われていた。月並句会の運営は投句する際に拠出する「入花料」といういわば通信教育料によって賄われていた。一茶は文化元年(1804年)4月から文化2年(1805年)6月までの1年あまりの期間、一茶園月並という月並句会を行っていたことが確認されている。 一茶園月並の参加者の多くは一茶が房総方面で巡回していた俳人たちであった。月並句会の実施には各種の事務作業が伴う。一茶園月並の場合、友人であった祇兵という俳人が手伝っていたものの、一茶自身の事務量も多かったと思われる。一茶にとって一茶園月並の事務は負担であったと思われ、また思うように投稿者が集まらなかったともみられており、結局、運営は上手くいかなかったと考えられている。月並句会の挫折は一茶の生活を経済的に厳しい状況に置き続けることとなり、更に房総方面への俳諧行脚に依存することに繋がった。
※この「一茶園月並の挫折」の解説は、「小林一茶」の解説の一部です。
「一茶園月並の挫折」を含む「小林一茶」の記事については、「小林一茶」の概要を参照ください。
- 一茶園月並の挫折のページへのリンク