一茶の俳諧指導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
一茶の宗匠としての俳諧指導は、まず定例の句会における対面による指導を重んじた。そしてなかなか句会に参加できない門人は、一茶に詠んだ句を送るなどして添削指導を受けた。また集団で詠んだ句を採点する、点取句合という方法を取ったことがあるのも確認されている。なお点取句合の一種として、広く投句を募りその中から優秀作を撰ぶ懸賞句合というシステムがあった。この懸賞句合の撰者は俳諧師としては良い収入になったが、一茶は懸賞句合の仕事には消極的であった。しかしいくつか一茶が撰者となった懸賞句合の掲額が残っていて、その中で文政3年(1820年)、善光寺に掲額された中には、一茶自撰の 春風や牛にひかれて善光寺 の句がある。 句会による対面指導、添削による指導の他に、当時、多くの俳諧社中では、社中の門人たちが出句料とともに出句を行い、その中から撰ばれた句を紹介する刊行物を定期的に発行していた。これは門人たちの意欲向上と俳諧結社の結束力強化に有効であったが、一茶社中では定期刊行物が出された形跡がない。これは門人数が少なかったこと、一茶には内弟子に当たる執筆がおらず、定期刊行物の編集、出版に携わる人材がいなかったこと、一茶自身が社中の定期刊行物の出版に消極的であったと考えられること、そして門人たちの俳書の制作に傾注していたことが原因として考えられる。 一茶社中では定期刊行物の発行は行われなかった。その代わり、一茶が熱心に取り組んだのが、門人たちの俳書の出版であった。門人たちの中には自力で俳書を出版していた者もいたが、文字通り北信濃の地方出版で素朴なものであった。一茶は門人の俳書出版を強力に後押しし、編集、校正、そして出版の手続きを一手に引き受けた。江戸での俳壇生活が長く、高名な俳人との深い交際を続けていた一茶は、俳書の出版についてのノウハウを持っていた。しかも江戸とのコネクションもあるので、北信濃ではなく技術的にも高い江戸の出版業者からの刊行が可能であった。もちろん相応の手数料は受け取っていたものと考えられるが、本の体裁、校正の内容からも単なる出版の請負いではなく、一茶が門人たちの出版を真剣にサポートしていたことがわかる。これは出句料を一人ひとり徴取する必要がある定期刊行物よりも、諸費用を全部門人が持つ俳書の発行の方が楽な一面があり、また内容が充実した門人の俳書を江戸で出版することは、一茶にとって自ら、そして一茶社中を全国の俳壇にアピールすることにも繋がったためと考えられる。 なお、出版を計画しながらも諸事情で実現しなかった門人の俳書が4つあることが知られている。そして一茶自身の俳書にも生前に出版が叶わなかったものが3つある。生前出版されなかった一茶の俳書の中に俳文集「おらが春」があり、生前、版下までほぼ完成していたことが知られている。なお「おらが春」は没後25年を経た嘉永5年(1852年)にようやく刊行され、その後版を重ね、やがて一茶の代表作として知られるようになった。 また、一茶は門人たちと積極的に「土佐日記」、「方丈記」といった古典籍などの書物の貸し借りを行っており、そして名所見物、書画会などの催しを行っていた。このような俳諧の枠にとどまらない学習交流も一茶の俳諧指導の特徴に挙げられる。 一茶は門人たちに俳諧を詠む心得として、技術論や高尚な芸術論に寄り掛かることなく、あるがままの「心の誠」を詠むように教えた。これは旺盛な経済活動の中、文化が一部の好事家のものばかりでなく、広く大衆のものになりつつあった化政文化の時代、庶民文化の一翼を担う俳諧の役割を重んじた一茶の姿勢によるものであるとともに、何よりも日常生活における喜怒哀楽を詠む一茶の句作に通じるものであった。 一茶の門人たちに対する具体的な指導内容としては、まずは反復練習を勧め、その上で先人たちの句作の模倣を戒め、自らの言葉で詠むように指導した。その一方で無季の句や季重ねの句を注意し、奇異な言語表現を戒めるなど、俳句の決まりごとを忠実に指導するという、極めて常識的な俳諧指導を行っている。一茶自身は自由闊達ともいえる言葉遣い、表現をいわば自家薬籠中のものにして「一茶調」と呼ばれていたが、門人たちには一茶の作風そのものを指導、伝授しようとはせず、むしろ「一茶調」を模倣しようとする門人を制止している。これは事実ではない伝承の話ではあるが、一茶は臨終の床で門人たちに「私の句風を真似るな」と、言い残したと伝えられているほどである。 一茶が自らの作風については門人たちに伝授しようとしなかったのは、まず門人たちの中に一茶の作風をきちんと消化して、自らのものとし得る力量を持った人物が見当たらなかったこと、そして一茶自身の強烈な個性、高い才能、様々な苦闘に満ちた人生と深く結びついた一茶調は、真似しようにも真似ができないものであると判断していたためと考えられる。
※この「一茶の俳諧指導」の解説は、「小林一茶」の解説の一部です。
「一茶の俳諧指導」を含む「小林一茶」の記事については、「小林一茶」の概要を参照ください。
- 一茶の俳諧指導のページへのリンク