一茶発句集の刊行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
一茶の没後、遺稿はあまり散逸することなく遺族や門人たちの手に残ったと考えられている。そして14名の有力門人たちは共同で一茶の句集を編纂、出版することになった。句集は「一茶発句集」と名付けられ、文政12年(1829年)、一茶の三回忌に出版された。14名の有力門人たちの中には、かつて激しく対立した門人も含まれていたが、師の追善句集の出版にはかつての行きがかりを捨て、協力した。なお、「一茶発句集」は信濃の地方出版ではあったが、相当部数が出版されたものと考えられている。 しかし一茶晩年の愛弟子であった山岸梅塵は、一茶発句集の編纂、出版に加われなかった。このことを嘆いた梅塵は、独自に「一茶発句集」に撰ばれなかった句から「一茶発句集続編」を完成させる。この「一茶発句集続編」は「一茶発句集」の追補に当たる内容であったが、完成したものの出版はされなかった。 また門人の西原文虎は、一茶が亡くなった文化10年(1827年)に「一茶翁終焉記」を執筆する。門人たちの手による「一茶発句集」、「一茶発句集続編」、「一茶翁終焉記」は、作品や一茶自身についての研究、いわゆる一茶研究の始まりとなった。
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