一茶を支えた房総の俳人たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
「小林一茶」の記事における「一茶を支えた房総の俳人たち」の解説
房総方面で一茶がしばしば訪れた俳人としては、水戸街道、利根川周辺コースでは馬橋の大川斗囿(おおかわとゆう)、流山の秋元双樹、布川の古田月船、守谷の鶴老などがいた。なお馬橋の大川斗囿は一茶が俳諧の道を志した頃から援助を惜しまなかった大川立砂の子であり、親子二代にわたって一茶と親交を深めていた。斗囿は一茶が江戸を離れ、故郷柏原で生活するようになった後も句の添削指導を仰いでおり、一茶に師事し続けた。流山の秋元双樹は、前述のように一茶の本所相生町5丁目への転居時に家財道具一式をプレゼントしており、下総方面へ一茶が俳諧行脚に出るたびに双樹宅に立ち寄るばかりではなく、双樹もまた江戸へ出るときには一茶を尋ねるのが常であった。 水戸街道、利根川周辺での俳諧行脚時の代表作として、文化元年(1804年)作の 夕月や流れ残りのきりぎりす がある。洪水後の利根川、夕暮れになって洪水をしぶとく生き延びたコオロギが、夕暮れの月のもと鳴き始めているという、弱小な生き物でありながらたくましく生き抜く姿を描き出している。これは後年に至るまで一茶の主要テーマの一つとなる題材である。またこの句は、洪水をしぶとく生き残るコオロギに自らを重ね合わせた句でもある。 一方、木更津を拠点とした上総、安房方面では木更津の石川雨十、富津の徳阿、織本花嬌、子盛、金谷の砂明、勝山の醍醐宜明らがいた。中でも注目されるのが女流俳人の富津の織本花嬌である。花嬌は酒造業と金融業を営む豪商、織本嘉右衛門永祥の妻であり、夫婦そろって俳諧を趣味としていた。織本夫婦と一茶との付き合いは寛政年間からあったが、寛政6年(1794年)に夫を亡くした後も一茶との関係は続き、木更津方面へ一茶が俳諧行脚する際にはしばしば花嬌宅に立ち寄り、また花嬌は一茶園月並の投稿常連者でもあった。 花嬌は一茶の俳諧師としての才能を評価して師事していたと考えられる。花嬌本人も俳句の才能があり、一茶園月並でも高い評価がなされていることが確認されていて、一茶らと詠んだ連句からも才能の高さが感じられる。一茶と花嬌との間には恋愛関係があったのではとの説もあるが、花嬌は一茶よりもかなり年長であったと推定され、また夫を亡くした後の花嬌は出家していることが確認されていることもあり、一茶との恋愛関係は成立しがたいとの説が有力である。 文化7年(1810年)4月、花嬌は亡くなった。一茶は花嬌没後の百カ日法要に駆け付け、文化9年(1812年)4月の花嬌の命日に行われた三回忌にも遺族の要請もあって出席している。三回忌出席のために富津へ向かう途上、一茶は 亡き母や海見る度に見る度に という句を詠んだ。このことから一茶が花嬌に対して抱いたのは、幼い日に亡くした母の面影であったとの説もある。
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