一茶社中の完成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
帰郷、そして文化14年以降は江戸に行くことも無くなり、江戸の一茶から文字通り信濃の一茶となったものの、俳句界の中での一茶の存在感は増すばかりであった。一茶帰郷後の文化年間後期から文政期にかけて、俳人番付での一茶の評価はおしなべて全国トップクラスであり、当時の日本を代表する俳人の一人と評価されていた。一茶の高評価は最晩年に至るまで変わることが無く、信濃の一茶の名は当時の全国俳句愛好者の間では良く知られていた。 一茶の知名度が上がるにつれて、多くの俳句愛好者たちが一茶に会いにやって来るようになった。遠くは東北地方、中国地方からの来訪者がいたことが確認されている。また一茶のもとには各地から揮毫の依頼や俳書の序文の執筆依頼なども送られてきた。 前述のように一茶の帰郷前から北信濃は一種の俳諧ブームといえる状況であった。江戸帰りの宗匠であり、しかも全国的に名声が轟いていた一茶のところには、特に積極的な勧誘を行わなくとも門人が集まるようになっていった。文政年間に入ると、国境を超えて越後の関川(妙高市)にまで門人の輪が広がっていく。なお、越後まで一茶社中が広がった背景には、一茶の初婚の相手である菊が、関川から川を挟んで反対側の信濃の赤川(信濃町)出身であったことも影響している。 一茶社中は地域的に見ると長野市以北の旧水内郡、高井郡と一部越後にかかる地域が勢力範囲で、水内郡北東部の飯山方面や更級郡、埴科郡には勢力が及ばなかった。これはかつて北信濃一帯に広く社中を形成していた戸谷猿左の勢力範囲とほぼ重複しており、一茶はいわば猿左の地盤を引き継いだ形となった。これは更級郡、埴科郡は宮本虎杖系の強固な地盤であったためである。宮本虎杖系と一茶社中とは重複する地域や門人が見られるものの、基本的には両派の勢力範囲は分かれており、特に目立った衝突は無かった。
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